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Vol 6. 謀反・裏切り・討死 武将たちの生き様

 

梟雄 松永久秀

戦国期の梟雄として知られる松永久秀。彼の出生地については山城西岡(京都府長岡京市)とするものが多いが他に摂津・播磨・加賀・筑前・阿波・豊後・近江などとする説も存在する。また生年についても永正七年(1510)説が主流となっているようだが、これも確かなものではなく、現状では出自一切が不明と言わざるを得ない。はっきりしていることは近畿一円に強大な勢力を有した三好長慶の下で力をつけ、後に独立した大名となったということである。ちなみに、久秀と並ぶ戦国期の梟雄で織田信長の岳父にあたる斎藤道三もまた、西岡の出身とされている。久秀の名が初めて確かな記録に見えるのは天文十一年(1542)十一月二十六日、信長がまだ九歳の時のことである。

「近般三好源三郎當國可亂入歟之由種〃造意、則山城ニテ松長弾正已下人數近日罷越了、仍爲調伏被修之了」(『多聞院日記』同日条)

記録中に「松長(永)弾正已下人數近日罷越了」と見えるように、久秀は当時既に弾正と称していて三好家中で一部隊を率いる地位にあったことがわかる。永正七年誕生説を信ずるならば当時三十三歳ということになるが、久秀には甚介長頼という弟の存在が知られており、長頼もまた三好家の丹波方面の有能な指揮官として重用されていた。

久秀は軍政両面における長慶の懐刀であったが、永禄二年(1559)に大和へ侵入すると信貴山城を居城とし、後に南都(奈良市)に多聞山城を築いて大和支配を進めていった。その後は筒井氏ら大和国人衆との戦いに明け暮れる一方、長慶没後は室町幕府十三代将軍・足利義輝暗殺に関与するなどの動きを見せるが、信長が足利義昭を奉じて上洛すると直ちに従っている。

久秀は信長に従ってからも武田信玄に通じるなど離反を繰り返し、信長も久秀に利用価値は認めたものの信用してはいなかったようである。この間の久秀の事績は省略するが、信長が本願寺を攻撃中の天正五年(1577)八月十七日、久秀は突然摂津天王寺の陣を払って戦線を離脱、信貴山城へ籠もった。


信貴山城周辺

 

放送では一豊が久秀に降伏するよう説得しているが、これは史実ではなく演出である。実際に派遣されたのは松井友閑だが、久秀は耳を貸さなかった。久秀謀反の背景には本願寺やすでに東進中の毛利勢・上杉謙信との連繋、さらに信長の主力が北陸へ向かっており手薄という事実があったというが、むしろ久秀の心底には宿敵筒井順慶の支配下に置かれた屈辱が常にあり(順慶は前年五月に信長から大和一国を任されている)、それから脱却できるならばと本願寺等の誘いに乗ったのかもしれない。もちろん失敗したときには確実に破滅が待っていることは百も承知の上でのことである。


久秀が治めた多聞山城は近代城郭への先駆となった

 

久秀散る

信長は嫡男・信忠を大将として信貴山城攻めへと出陣させた。  
信忠は十月一日に久秀の重臣海老名・森の籠もる片岡城を落とし、五日には人質として預けられていた久秀の嫡子・久通の子(十二・三歳という)を京で処刑すると、同日四万の兵が信貴山城へ一斉に攻め寄せる。多少の抵抗はしたものの力尽きた久秀は、名器・平蜘蛛茶釜を粉々に砕いてから城に火を放って自刃した。享年六十八歳、一説に爆死(焚死)とも伝えられている。

『和州諸将軍傳』によると、かねてより久秀方に潜入していた筒井順慶の臣・森好久が久秀から本願寺に救援を要請する使者として選ばれた際、松蔵右近の謀略によって救援に駆けつけた本願寺勢と見せかけた筒井勢を城に送り込み、内部より攪乱し落城させたとする話が伝えられている。いずれにせよ久秀はここに滅ぶが、ちょうど十年前の永禄十年十月十日には三好三人衆との抗争で大仏殿が焼けており、『多聞院日記』によると大仏殿の焼けた翌日も雨、信貴山落城の翌日もまた冷たい雨が降っていたことが書かれており、大和の民衆は大仏の祟りだと囁きあったと記録に見える。

こうして久秀を滅ぼした信長であったが、一難去ってまた一難、今度は荒木村重の謀反という大事件が起こる。 村重の謀反に至るまでには短期間に複雑な出来事が相次いで起こるため、日付を追ってご覧頂きたい。

信貴山城攻めが落着して間もない十月十九日のこと、信長から播磨出陣を命じられた羽柴秀吉は、中国攻めに向け一万五千の兵を率いて安土城を出陣した。 これに先立って明智光秀も丹波方面攻略に出陣しており、信長軍団は西へ向けて本格的に動き出す。

 

忠魂烈士山中鹿之助

秀吉は二十三日に小寺(黒田)孝高の出迎えで姫路城に入ると、直ちに播磨諸将の人質を取り、十一月二十九日に赤松政範の籠もる播磨上月城の攻略に取りかかった。秀吉は十二月三日に上月城を落とすと、主家再興を悲願としていた尼子氏の旧臣・山中鹿介幸盛を入れて守らせた。鹿介は尼子氏滅亡後、京都東福寺で僧となっていた尼子誠久の子を還俗させ、孫四郎勝久と名乗らせて主君と仰ぎ出雲侵攻を行ったことがあった。一旦侵攻は果たして気勢を上げたものの月山富田城は奪えず、元亀二年(1571)八月に吉川元春に敗れて鹿介は伯耆末石城で捕らえられ、勝久は出雲侵攻の拠点・新山城を捨てて京都へと逃れていた。鹿介は程なく脱出して京都へと向かうが、有名な鹿介の「不浄口からの脱出」の話はこの時のことである。

鹿介は秀吉の配慮に喜び、勇躍して京都に潜伏している勝久を迎えに行った。これが十二月下旬のことなのだが、鹿介不在をいち早く察知した人物がいた。当時毛利方にあった、戦国期屈指の謀将・宇喜多直家である。直家はすかさず真壁彦九郎治次に五百の兵を与えて上月城を奇襲させ、何と一夜にして城を奪取する。ところが翌年正月下旬、鹿介らが一千余騎で攻め寄せるとの風聞に接した真壁は戦う前に城を捨てて逃げ出してしまい、鹿介らは無事に上月城を奪い返すという一幕があった。

直家はすぐさま彦九郎治次の弟・治時に三千の兵を与えて再度出陣させるが、鹿介の奇襲により治時は討たれ、またしても直家は煮え湯を飲まされることになった。怒った直家は上月城奪取に本腰を入れ、今度は家中主力の長船紀伊守・岡越前守ら宿将に五千の兵を与えて攻略を厳命する。さすがに三度目の攻撃は厳しかった。猛攻に耐えきれなくなった鹿介らは秀吉の了解を得て城の守りを放棄、姫路城へと退去した。直家は赤松氏の一族・上月十郎(景貞)に二千の兵を与えて上月城を守らせるが、これが二月上旬のことである。

 

秀吉は一旦安土の信長に播但方面の平定を伝えて播磨に戻ってきたが、二月二十三日に別所長治が離反するという事件が起こった(時期は三月ともいう)。そしてこの事件が結果的に上月城の運命を左右することになる。

別所氏は赤松氏の一族で当時三木城を本拠とし、東播八郡に勢威をふるっていた。一説に、上記日時に加古川城で行われた軍議の際、秀吉が別所氏のプライドを傷つける処遇をしたため、当主の長治が怒って離反したという。これにより秀吉は三木城周辺に兵を集中せざるを得なくなり、勝久・鹿介主従は上月城に取り残される形となったのである。

この状況を毛利氏が見過ごすはずはなく、四月十八日に吉川元春・小早川隆景が三万の大軍を率いて上月城を包囲した。秀吉も救援に向かったものの毛利方の包囲は厳しく、戦いは膠着状態となる。手詰まりに陥った秀吉は信長の命により上月城を放棄、勝久に開城を勧めるが、勝久はこれを拒否して籠城を続けた。尼子家再興を悲願としている勝久・鹿介主従にとって、ようやく手に入れた拠点を放棄することは心情的に出来なかったのであろう。

秀吉は六月二十四日に上月城から軍を返した。もはや勝久には降伏か玉砕かしか選択肢はなく、城内で評議した結果、老臣・神西元通の自刃と引き替えに勝久の助命を願い出ることに決すと、直ちに毛利方へ申し送った。しかし毛利方は許さず、勝久と弟の通久、嫡男・豊若丸ら十余名の自刃以外の条件では応じないとの返事を与えるのだが、この返答が城内に届く前の七月二日に神西元通は自刃してしまっていた。元通の死も報われず、ついに勝久はこの日自刃、二十六歳の生涯を終えた。鹿介は七月八日に下城したところを捕らえられ、毛利輝元本陣への護送途中の七月十七日、備中阿井の渡しで殺害された。

別所氏への対応と上月城の二方面での軍事行動を強いられた秀吉だが、三月二十九日から三木城攻めを開始すると、四月六日にまず長井政重の拠る支城・野口城を落とした。信長もこの事態を憂慮し、本願寺攻めに向かわせていた嫡子信忠以下明智光秀・滝川一益・丹羽長秀・荒木村重らを播磨方面に転戦させ、総勢三万の兵が五月六日に播磨明石に上陸した。信忠の援軍は神吉(かんき)城に攻め掛かり、七月になってこれを落とすが、その間に上月城は落ちていた。引き続き八月十二日に志方城、翌日に端谷(はぜたに)城を落として支城の攻略を完了すると、信忠は秀吉に三木城包囲を命じて十六日に岐阜へ戻った。

秀吉は十月初旬に三木城の東方にある平井山に本陣を置き、城を完全に包囲した。そして、これから本腰を入れて三木城攻め、というところで荒木村重の謀反が起こるのである。

 

荒木村重の謀反

 

荒木村重は初め池田氏に仕えていたが、信長の上洛とともに傘下に属した。やがて非凡な才能が認められ、この頃には摂津有岡城を本拠として摂津一国を領するまでになっていた。村重は本願寺に対峙しつつ秀吉の後詰めとして信忠に従うが、七月に突如として戦線を離脱、有岡城へ引き返したのである。

村重謀反の理由は明らかではないが、一説に配下の将で従弟に当たる茨木城主・中川清秀が本願寺に兵糧を横流ししたとの噂が立ち、村重が釈明のため安土に赴く途中に茨木城に立ち寄った際、清秀から 「安土へ行けば切腹させられる。もはや一戦に及ぶべきだ」 と勧められ決意したという。理由はともあれ、村重は毛利氏・本願寺と連絡を取り、本願寺に人質を送って信長に背いた。これにより秀吉は毛利・荒木両氏に挟まれた中で三木城攻略を進めなければならなくなってしまったのである。

信長は十月二十一日に細川藤孝からの急報で事件を知ると、直ちに福富平左衛門・佐久間信盛を派遣して慰留するが、村重は応じなかった。引き続き明智光秀・羽柴秀吉らにも説得を命じるが、秀吉のもとから有岡城に赴いた黒田官兵衛は逆に村重に捕らえられ、城内の牢に押し込められてしまう。官兵衛は有岡城落城の際に無事救出されるが、長期間劣悪な環境に置かれたため、以後足が不自由になってしまったことは広く知られている。

十一月九日、信長は摂津山崎に軍を進めると、翌日に村重配下の高槻城主・高山右近と茨木城主・中川清秀を攻め、程なく両者を降した信長は十四日から有岡城の攻撃にかかった。村重はしぶとく応戦、戦いは持久戦となった。この間十二月八日の戦いでは信長側近の万見重元(仙千代)が戦死するなどの損害を出している。

両戦線とも持久戦となり、翌年二月に秀吉勢と小競り合いを起こして敗れた別所勢は、本格的な籠城を始めるのだが、その頃既に兵糧の欠乏が心配される状況になっていた。


竹中半兵衛重治

 

そんな中、秀吉の名参謀・竹中半兵衛重治が陣中に病没する。半兵衛は秀吉の勧めで一時的に陣を離れて京都で療養に努めていたが、回復が望めないと知ると平井の陣中へ戻ってきた。そして六月十三日に息を引き取ったのである。秀吉の落胆は大きく、遺体に取りすがって号泣したという。


半兵衛享年三十六歳であった。

 

by Masa

 

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