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Vol 7. 三木城落城、十両の馬と賢妻千代

三木城落城

羽柴秀吉は三木城が頑強な抵抗を続ける中に名参謀であった竹中半兵衛重治を失い、また黒田官兵衛孝高が有岡城に囚われて窮地に陥るが、その頃三木城内では兵糧の欠乏が非常に深刻な状態となっていた。 というのも、三木城は荒木村重が信長に反旗を翻して以来、摂津花熊(隈)城を中継拠点として箕谷〜丹生山を経由する東方からの兵糧搬入ルートを確保していたが、この年の五月二十五日に秀吉の弟・秀長により遮断されていたからである。その際、秀長は丹生山の北にある淡河(おうご)城に攻め掛かるが、城主・淡河定範は乱軍の中にかねてより買い集めていた馬五、六十頭を放って秀長勢を一層混乱させ、城中からも打って出て寄せ手を撃退したという逸話が残っている。しかし所詮は多勢に無勢、体勢を立て直されて再度攻撃されれば勝ち目はないと見た定範は、自ら城に火を放って三木城に合流した。

別所長治から救援要請を受けた毛利氏は、生石(おいし)中務少輔を総大将として派遣、雑賀衆の協力を得て城内への兵糧搬入を行った。九月九日夜に魚住浜にを出た毛利勢は三木城の北西、谷大膳衛好の拠る平田砦を急襲した。作戦としては毛利勢が三木城攻囲軍を攻めると同時に城内からも打って出、その隙に雑賀衆が兵糧を城内に運び込むというものである。不意を突かれた平田砦は大混乱し、谷大膳は奮戦虚しく戦死した。


平田・大村合戦の地に建つ
谷大膳衛好の墓。 (兵庫県三木市)

 

この間、雑賀衆は大村のあたりで兵糧を受け取りに出て来た別所吉親らとの合流に成功、ここまでは予定通りに計画が運んでいたのだが、異変に気づいた秀吉は直ちに一隊を救援に向け別所・雑賀勢を撃破、兵糧の搬入を見事に阻止したのである。惨敗を喫した吉親はかろうじて三木城に戻ったものの、長治の落胆は大きかった。逆に秀吉方では十月に摂津有岡城が落城、城内の牢屋に囚われていた黒田官兵衛が救出され、足に障害が残ったものの陣営に復帰した。半兵衛を失った秀吉は、再会した官兵衛の手を取り涙を流して労苦をねぎらったという。

明けて天正八年、兵糧の全く無くなった城内は地獄と化していた。牛馬や犬猫、鳥はもとより鼠・蛇・蛙・虫から木の芽や雑草にいたるまで、食べられるものは全て視界から消えた。壁をなめ、土を煮て飲む者もいた。落城は間近と判断した秀吉は正月六日、城南の高所にあり長治の弟・友之の守る鷹の尾砦を攻めたところ、体力を奪われた城兵にはもはや反撃する力はなく、次々と討たれていった。友之はかろうじて三木城に入るが、秀吉は攻撃をかける一方で城内へ勧降の使として黒田官兵衛を送り込んだ。

正月十五日、城内の惨状を見かねた別所長治は、ついに別所一族の命と引き替えに城兵を助命するという条件で開城を決意、十七日に弟友之ら一族とともに自害して果てた。

 


法界寺の別所長治廟

 

 

今はただ恨みもあらず諸人の
   いのちに代はるわが身と思へば (長治)


長治夫妻の首塚(雲龍寺)

 

 

 

命をも惜しまざりけりあずさ弓   
    末の世までも名を思う身は (友之)

享年長治二十三歳、友之二十一歳。ここに播磨の名族・別所氏の嫡流は滅ぶ。

こうして秀吉は苦労の末に三木城を落とすが、この年は織田信長にも大きな動 きがあった。三月に石山本願寺の顕如と和睦(実質上は本願寺の降伏)、長きにわたった石山合戦が終結したのである。 顕如は四月九日に石山を退去して紀州鷺森へと移り、顕如の退去を潔しとせず抵抗を続けていた子の教如も七月に降伏、信長は畿内を押さえることに成功した。

 

十両の馬

さて、一豊と千代の最も有名なエピソードである馬の話であるが、一豊が馬を買った時期は不明である。というのも、『常山紀談』や『藩翰譜』等ではその時期を「一豊が織田家に仕え始めた頃」、また一豊の所領を四百石とするが、同時に「程なく京都で行なわれた馬揃えで信長の目にとまった」とある。信長が京都で馬揃えを行うのは天正九年二月二十八日のことであり、加えてこの催しには羽柴秀吉は参加していない。さらにこの頃一豊は二千石を与えられており、明らかに時期がおかしいのである。この逸話は山内家にも伝えられていないところから見ても、おそらくは後に作られた話である可能性が高いが、以下にざっとご紹介する。放送では馬の話を三木城落城後のこの時期に入れている。つまり、信長の馬揃えに合わせたわけだが、『常山紀談』では年次は記されていないものの、天正元年の話に混じって記されていることを付記しておく。

 山内土佐守一豊は初め織田家に仕えていた。その頃東国第一の駿馬であるとして、安土に馬を引いてきて売る者がいたが、馬を見た織田家の士は「誠に無双の駿足だが値段があまりにも高すぎる」と言って求める者はおらず、馬売りはあきらめて帰ろうとしていた。一豊はその頃猪右衛門と名乗っていて、この馬が欲しくて仕方がなかったが、どう転んでも叶うはずはなく、家に帰って妻に言った。

 

「貧乏ほど口惜しいことはない。奉公の初めにこのような素晴らしい馬に乗って信長様の前に出られたら・・・」

話を聞いた妻は馬の値段を尋ねた。 一豊が「黄金十両と言っていた」と答えると、妻は言う。 「それほど欲しいと仰せられるなら買いなされませ。代金は私が都合して差し上げましょう」

妻は鏡箱の底から金子を取り出し、一豊の前に差し出した。一豊は非常に驚いて「これまで貧しくて苦しいことばかり多かったが、よくこんな金を内緒で持っていたものだ。まさか今、この馬を得ることが出来ようとは思いも寄らなかった」と喜ぶ一方で今まで黙っていた妻を恨んだ。

「仰せはごもっともでございます。しかしこれは私が当家に嫁ぎ来る際、父はこの鏡箱の下に入れて『よいか、この金はくれぐれも普段の生活に使ってはならぬ。お前の夫の一大事と思う時に使え』と戒められました。家が貧しいのは世の常と思って我慢すれば過ごせます。ただこの度京都で馬揃えが行われるとあれば、これは天下の見物でございます。あなたもまだ仕えたばかり、ぜひ良い馬に乗っているところを信長様に見て頂きましょう」

一豊は大いに喜んで、やがて馬を求めた。程なく京都で馬揃えがあり、一豊がこの馬に乗って参加したところ、信長は大いに驚き「あっぱれな馬である」と事の次第を問うた。事情を聞いた信長は、「東国第一の馬をはるばるわが領内に引いてやって来たのに、空しく帰してしまっては口惜しい。山内は久しく浪人していたと聞くが、家が貧しいにもかかわらずこの馬を買い求め得たのは、織田家の恥を雪いだ上に弓矢を取る身にとってこれに過ぎるものはない」と大いに感じ、以後次第に重く用いられた。 (『常山紀談』巻四の四、第七十話「山内一豊馬を買れし事」より全文を意訳)

 

馬揃え

信長は二月二十八日、正親町天皇の御前で畿内周辺の大小名・御家人らを選りすぐった駿馬とともに集め、大々的な馬揃えを行った。京都御所東門の外に南北八町に及ぶ馬場を新たに設けという力の入れようで、信長麾下の錚々たる面々が 華麗に着飾って馬場を行進する様は、『信長公記』を著した太田牛一も「日本国中は言うまでもなく、異国にもこれほど素晴らしいものはないだろう」と絶賛している。ちなみに信長は出場者を十組に分け、自身は最後の組で登場した。その顔ぶれは以下の通りである。

1.丹羽長秀、革島一宣、摂津・若狭衆  
2.蜂屋頼隆、河内・和泉衆、根来寺衆  
3.明智光秀、大和・上山城衆  
4.村井作右衛門、根来・上山城衆  
5.一門衆(信忠・信雄・信包・信孝・信澄・長益ら)、美濃・尾張・伊勢衆  
6.公家衆(近衛前久・正親町季秀・烏丸光宣・日野輝資ら)  
7.細川昭元、細川藤賢、伊勢貞景、一色満信、小笠原長時  
8.信長馬廻衆、小姓衆  
9.柴田勝家、柴田勝豊、不破光治、前田利家、金森長近ら  
10.信長、直属弓衆、中間衆、坊主衆(楠長諳・松井友閑ら)など

信長の出で立ちはというと、唐冠に梅の花を折って差し、長岡与一郎(細川忠興)が献上した蜀紅錦の小袖を着用、紅緞子に桐の唐草をあしらった肩衣と袴を付け、白熊の革製の腰蓑に禁裏から下賜されたボタンの作花を差すという華麗なものであった。ただ、羽柴秀吉は当時中国攻略に忙しくて参加できず、非常に残念がったようである。せめて参加者の当日の出で立ちを知りたいと、後に信長の側近に当日の様子を尋ねている。信長はこの日の盛況に喜んだ正親町天皇の要望に応え、三月五日にも名馬五百頭による馬揃えを行っている。

by Masa

 

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