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Vol 10. 天下平定戦

「賤ヶ岳の戦い」 秀吉VS勝家

柴田勝家が出陣してくると、対する秀吉も同日長浜城に入り、全軍を十四段に分け柴田勢と対峙、十八日には本陣を木之本に進めた。両軍が膠着状態となり一ヶ月が過ぎようとした時のこと、先に降伏した岐阜城の織田信孝が勝家に応じて反旗を翻したため、怒った秀吉は人質として安土で預かっていた信孝の母と乳母を処刑し、岐阜城へと向かう。これが四月十六日 (十七日とも)のことである。ところが折からの大雨で木曽川が渡れず、大垣城で待機していたところ、勝家の先鋒・佐久間盛政が強引に勝家の許可を取りつけて秀吉方の大岩山砦を攻撃、奪取したという一報が届く。急報に接した秀吉は二十日に予定していた岐阜城攻撃を急遽取り消し、一万五千の兵を信孝への押さえとして残すと、またもや神速の行軍で兵を返した。

 

秀吉が大垣を出たのは二十日の午後四時頃である。そして秀吉勢は、関ヶ原〜小谷経由で何と十三里(約五十二キロメートル)の道のりを、一説に五時間強で駆け戻ったという。一方、勝家は盛政に直ちに引き上げるよう命令するが、さらなる戦果を求める盛政は耳を貸さず、大岩山に居座っていた。盛政は秀吉の帰陣は早くても翌朝と計算していたのだが、夜に入って夥しい松明が木之本付近に動くのを見て驚愕、急ぎ撤退を開始した。しかし時すでに遅く、秀吉は全軍を上げて総攻撃をかけ、ここに大激戦が展開された。盛政は奮戦して持ちこたえるが、その時勝家の与力・前田利家が突如として陣を払ったため柴田勢は総崩れとなり、勝家はかろうじて北ノ庄城に逃げ戻った。この戦いで活躍した秀吉方の糟屋武則・片桐且元・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・福島正則・脇坂安治の七人が、世に「賤ヶ岳七本槍」として知られている。

秀吉は続いて北ノ庄城に攻め寄せ、城を包囲する。勝家は三人の娘を城から落とした後、秀吉勢の総攻撃を受ける中、妻のお市の方とともに自害した。勝家とお市の墓は福井市内の西光寺に並んで残っている。

 

「小牧長久手の戦い」 秀吉VS家康


織田信孝の墓(三重県亀山市・福蔵寺)

 

秀吉は勝家を滅ぼすと、活躍した家臣たちに俸禄の加増を行った。「七本槍」の面々は軒並み三千石を与えられたが(福島正則は五千石)、一豊への加増は三百石であったという。このため放送では一豊がふてくされている様を描いているが、実際面白くはなかったであろう。ちなみに一番槍の活躍をした人物は、先述の七人に加え石川兵助(一光)と桜井佐吉の計九人いるのだが、石川兵助は柴田方の剛将で加賀大聖寺城主・拝郷五左衛門(家嘉)を討ち取る大功を挙げたものの惜しくも戦死、桜井佐吉も合戦の際に受けた傷がもとで三年後に没したため、残った七人を「賤ヶ岳七本槍」と称したという。ということは、これを信ずる限り少なくとも合戦後三年間は、まだ「七本槍」の呼称は存在していなかったことになる。

勝家を滅ぼした秀吉は、続いて信長の三男・信孝を兄の信雄を上手く操って自害に追い込み、ここに秀吉は名実ともに織田家中におけるナンバーワンの座を手中にするが、このあたりから雲行きが怪しくなって来る。翌十二年三月になって、信雄が三老臣(岡田重孝・津川義冬・浅井長時)を秀吉に内通したとして誅殺、徳川家康に助けを求めたことから、秀吉との対立が表面化した。信雄は秀吉に後押しされる形で信孝を滅ぼしたものの、秀吉が自分を立てようとはしていないことにようやく気付いたようである。

家康は信雄の要請に応じて出陣、十三日に尾張清洲城で信雄と合流した。兵力で秀吉に大きく劣る信雄・家康は、信長の乳兄弟にあたる譜代の宿老・池田恒興の抱き込みに期待していたが、恒興は女婿の森長可とともに秀吉方に加担、犬山城を攻め落とす。

一方、小牧山城を狙った恒興の長男・元助と森長可は、十六日になって羽黒に陣を進めるが、この動きを察知した家康は酒井忠次・榊原康政・奥平信昌らを差し向け、十七日朝に長可らの陣を急襲させた。長可らは奮戦するが結局敗れ、家康は小牧山城に陣を移して本格的に秀吉と対峙した。この戦いは「羽黒の陣」と呼ばれ、世に「小牧・長久手の戦い」の呼ばれる「小牧」の方の戦いである。


岡崎城(愛知県岡崎市)

その頃大坂城にいた秀吉は羽黒の敗報に接すと、急遽三月二十一日に大坂城を出陣して尾張へ向かい、岐阜・犬山を経て二十九日に楽田に本陣を置いた。先の羽黒の戦いで苦杯をなめた森長可は何とか敵に一矢報いたいと焦るが、戦いは膠着状態となる。そこで、長可の岳父・恒興が、我らと同様に家康も動けない今、長駆して家康の本拠・岡崎を攻撃させてはどうかという一計を案じた。

これは「中入れ」と呼ばれる奇策で、秀吉は初め採用を渋ったが、甥の秀次が大将を買って出たこともあり、四月七日に秀次・恒興・長可・堀秀政・長谷川秀一らに三万の兵を与えて実行に移した。

この動きを知った家康は、直ちに榊原康政・大須賀康高らに追撃を開始させ、自からも兵を率いて後を追う。一方、先鋒の恒興隊は通過する予定だった岩崎城から挑発され、予定を変更して城攻めを行った。あっという間に城は落としたものの、時間の浪費が致命的となり、秀次軍は家康軍に追いつかれてしまう。支離滅裂となった秀次軍は大敗を喫し、長可は本多重次勢との激戦の末に鉄砲で真額を撃ち抜かれて戦死、恒興・元助父子もともに戦死するという大損害を出して作戦は失敗に終わった。怒った秀吉は自ら出陣するが、家康の巧妙な軍の進退にかわされ、直接の戦いがないまま時間が経過していった。

ジリ貧になって士気が低下するのを恐れた秀吉は方策を一転、美濃加賀野井城・竹鼻城などの小城を攻め落とし、六月下旬に大坂へ戻った。九月になって丹羽長秀の斡旋により講和の話が出たものの、その時は不調に終わっている。しかし十一月七日、桑名で酒井忠次らの徳川勢と対峙した秀吉は、十一日になって突然意外な動きを見せた。信雄と矢田河原において急遽会見、講和を結んだのである。

その頃岡崎城にいた家康としては、戦況が有利だっただけに信雄の講和締結には首をかしげたことであろう。元々信雄に頼まれて出陣した以上、ここに家康は秀吉と戦う大義名分がなくなったわけである。信雄の行動に失望した家康は陣を撤収して浜松へと戻り、「二男於義丸を養子に貰って両家の親睦を図ろう」という秀吉からの申し出を受け入れ、直ちに石川数正を秀吉のもとへ遣わして講和成立の祝いの言葉を述べさせた。家康は約束通り於義丸と石川数正の子・勝千代、本多重次の子・仙千代を、翌月十二日に浜松から大坂へと送っている。この直後に秀吉と上杉景勝に挟まれて窮した越中富山城主・佐々成政が、家康に救援を求めて厳寒のさらさら越え(ザラ峠越え)を決行、苦難の末に浜松城にたどり着くのだが、時すでに遅く家康の同意を得ることはできなかった。

 

天下平定戦


長曾我部元親像(高知市)

 

秀吉は翌年三月に紀州攻めを行い、抵抗する雑賀太田党の本拠・太田城をまたもや水攻めで落とし、紀州をほぼ制圧した(亀山城主・湯川直春ら南紀の土豪は依然抵抗を続けたが、翌年に降伏している)。続いて六月より四国攻めを行い、七月に土佐の雄・長宗我部元親を降伏させると、さらに今度は越中の佐々成政攻めに向かい、八月に成政を降伏させた。こうして秀吉は当面の敵を制圧すると、大和の筒井定次を伊賀へ移封させるなど畿内を身内で固め、甥の秀次を近江八幡城に入れて四十三万石を与えた。

一豊はこの年の六月、若狭高浜城主に抜擢され一万九千石余を与えられるが、八月に田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末らとともに秀次付けの家老となり、程なく近江長浜城に移った。長浜城二万石。この頃には従五位下・対馬守に任官されており、ついに一豊は秀吉政権下の一大名となったのである。


長浜城

 


島津義久の墓(鹿児島市・福昌寺跡)

 

しかし目出度いことばかりではなかった。この年の十一月二十九日、近畿北部〜中部地方にかけて広範囲に起こった天正大地震によって長浜城が倒壊、一粒種の愛娘・与禰姫を失ってしまうのである。

一豊夫妻の受けた衝撃は大きく、悲しみは深かった。しかし、程なくして天の引き合わせか、屋敷の門前に赤ん坊が置き捨てられるという出来事があった(場所は妙心寺門前とする説もあり)。子を失って悲しみに暮れていた一豊夫妻はこれを引き取ることにし、男児であったことからお拾いと名付けて育てた。

お拾いは後に仏門に入り、妙心寺の名僧・南化国師に帰依して湘南宗化と号し、一代の名僧となる。血の繋がりこそないものの、千代はお拾いを終生愛した。余談だが、江戸初期に活躍した儒者・山崎闇斎は湘南和尚の高弟である。

さて、秀吉はなかなか上洛してこない家康に手を焼いていた。

翌十四年五月には妹の朝日姫を家康の後妻として両家の絆を一層深めるが、それでも家康は動かない。窮した秀吉は、母の大政所を朝日姫の見舞いという名目で岡崎に送った。これは実質的には人質と言って良く、ここに至って家康はついに上洛を決意するのだが、その際本多重次(作左衛門)は母子の館の周囲に枯柴を積み上げ、何時でも火を放てるようにしてまで用心したという逸話が残っている。ともあれ十月二十四日、家康はついに上洛して茶屋四郎次郎の屋敷に入り、二十七日に大坂城において秀吉に謁見、臣従した。

家康の件も落ち着いた十五年三月、秀吉は自ら出陣して九州の島津氏攻めを行った。九州統一目前まで歩を進めていた薩摩の雄・島津氏も、さすがに相手が秀吉では分が悪く、五月になって島津義久は剃髪、龍伯と改め降伏した。秀次が秀吉不在の留守を命ぜられたため、一豊はこの戦いには参加していない。

さて、秀吉の次なる標的は、小田原の北条氏である。

by Masa

 

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