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Vol 12. 関ヶ原

会津征伐と直江状

慶長四年(1599)八月十日、五大老の一人・上杉景勝は領国の会津に戻ると、城 砦を修築して軍備を整え出した。これはもちろん家康に対するものではなく、秀 吉・利家という実力者が没して再び戦国の世に戻らないとも限らない時節に備え たものであった。あわよくば中央の混乱に乗じて旧領越後を回復しようと企てた のかもしれない。

翌慶長五年正月、家康は年賀を述べに来た上杉家の家臣藤田信吉を通じて景勝 に対して上洛を求める。信吉は戻ってこれを景勝に伝えたところ、景勝は烈火の 如く怒り、信吉が家康方に内通したと疑い誅殺しようとした。身の危険を感じた 信吉は上杉家を逐電、江戸の秀忠のもとを経て大坂の家康に「景勝謀反の疑いあ り」と報じる。家康は他の大老奉行と相談の上で景勝に再度の上洛と陳謝釈明を 求めるが景勝はこれを拒否、ここに家康の会津征伐へとなるのである。

征伐の理由としては、一口で言うと豊臣政権における規律違反とのことだが、 これはおかしい。そもそも秀吉の遺命に背いて許可無しに婚姻関係を結び、私的 に恩賞を与えるといった「規律違反」を初めに、しかも堂々とやってのけたのは 家康自身なのである。自分のことを棚に上げて一方的に「謀反」と決めつけられ た景勝としては、名門上杉氏のプライドもあり、「はいそうですか」と従えるは ずはない。むろん家康はこういうことを見越した上で(対象が景勝であるかどう かは別として)一連の行動を起こしたわけで、そういう意味では景勝はまんまと 家康の術中にはめられたのかもしれない。その際、景勝の腹心・直江兼続が家康に対し、世に「直江状」と呼ばれる過激な文書を送りつけたという。この書状は後世に作られた偽書とも言われるが、真 偽はともかく内容は以下のようなものとされている。

「たった三里しか離れていない京と伏見の間にさえ色々な風説が飛びかうのに、 上方とここ会津は非常に遠く、どんな間違った風説が立とうとも何ら不思議では ない。また、誓紙を出せといわれるが、太閤に出した誓紙を一年もたたずに踏み にじり、諸大名と婚姻を結んだのはどこの誰であろう。景勝には謀反心など全く ない。上方では茶の湯など、およそ武士の本分とはかけ離れたことにうつつを抜 かしておられるようだが、我が上杉家は田舎武士につき、いつでもお役に立てる よう武具をととのえ人材を揃えることは、これこそ武家の本道と心得ている。道を整え河川を修復するのは領民のため以外に何があろう。一国の領主として当然のことではないか。それとも上杉家が家康公の今後の邪魔になるとでもお考えか?前田家に仕置きをされたそうだが、大層なご威光をお持ちなことだ。我々は心 ない人々の告げ口にいちいち会津から上方へ行って言い訳するほど暇ではない。 このような理不尽なことで我らを咎められるおつもりならばそうされよ。いつで もお相手をいたそう」

 

細川忠興の妻・ガラシャ(玉)

こうして会津征伐を決めた家康は六月十六日、豊臣家の諸将を率いて大坂を発った。もちろん一豊もこれに従って出陣している。そして家康が上方を留守にし たこの瞬間、石田三成は毛利輝元を総大将に据えて挙兵するのである。三成等( 以下西軍)はまず伏見城に照準を合わせるとともに、家康に従って出陣した諸将 の妻子を大坂城へ監禁し、西軍方に対する戦意を削ごうとしたのだが、細川忠興の妻・ガラシャ(玉)はこれを敢然と拒否した。西軍は七月九日、当時大坂玉造の 細川邸で留守を守っていたガラシャの元へ入城要請の使者を発するが、彼女は夫 忠興から「どのようなことがあっても屋敷の外に出てはいけない。三成の人質と して大坂城に入ることのないよう留意せよ」と言い渡されていることもあり、要 請を突っぱねた。そこで西軍は同月十七日、五百の兵を差し向けて力ずくで彼女 を拉致しようとしたのだが、これが裏目に出た。

細川邸では小笠原少斎(秀清)と河喜多石見・稲富伊賀が留守を守っていたが、 やがてこれらの警固兵と激しい戦闘が起き、逃れられないと覚悟したガラシャは 屋敷に火を放たせ、「大坂方に矢を放ってはならぬ」と兵たちを戒めた上で自ら の命を絶った。いや、絶たせた。熱心なキリシタンであった彼女は、キリスト教 が自殺を禁じているため、最後の祈りをイエス・キリストに捧げた後、家臣の小 笠原少斎に命じて長刀で胸を刺させたという。少斎は命を果たすと彼女の遺体に 練り絹の打ち掛けをかぶせ、火薬を撒いて火を付け(一説に火を放ったのは河喜 多とも)、自らも燃えさかる炎の中で自刃して果てた。

まさかこのような事態になるとは夢にも予想していなかった三成らはこの結末 に驚き、結局「人質作戦」は頓挫、以後監視を強化するのみに止まった。

ちりぬべき時知りてこそ世の中の 花も花なれ人も人なれ

38歳で昇天した薄倖の美女・ガラシャの辞世という。彼女の父は明智光秀である。

 

小山評定

家康は大坂城西の丸に佐野肥後守を留守居として残し、前田玄以・増田長盛ら の見送りを受けて大坂を出陣、鳥居元忠の守る伏見城へと向かった。同夜に伏見に到着すると、家康は元忠と主従水入らずで昔話に花を咲かせ、翌日午前七時頃に元忠らに見送られて伏見を出陣するが、これが元忠との最後の別れとなった。伏見城は七月十九日から西軍四万の猛攻を受けて八月一日に落城、元忠は六十二 歳を一期として討ち死にした。

この間、家康は江戸城に立ち寄って軍議を開き、会津攻めの手はずを整えて七月二十一日に江戸を発った。そして二十四日、下野小山に着陣した時に鳥居元忠から西軍の伏見城攻撃の報が届いたため、翌日軍議(世に「小山評定」という)を開き、上方の情勢を説明した上で、このまま上杉征伐に向かうか、それとも軍を返して石田三成らと雌雄を決するか、諸将の去就を問うた。結論として軍を返すことに決すのだが、この会議の席上で一豊が

 

「自分の居城・遠江掛川城を家康に 差し出すので自由に使っていただきたい」

と思い切った提案を出すと、内心では 家康加担に一抹の不安を有していた諸将が我も我もと続き、場の空気が一変した という。実はこの案は元々堀尾忠氏の発案によるものだったのだが、家康は一豊 が口火を切ったことに喜び、後に土佐二十万石という大封を与えている。

諸将は即刻軍を西へ返し、続々と福島正則の居城・清洲城(愛知県清須市)へ集結した。この後東軍は八月二十三日に織田秀信の守る岐阜城(岐阜市)を落とすなど、破竹の勢いで西軍勢の集結する大垣城(岐阜県大垣市)へと迫ると、城の北西 約4kmにある赤坂に布陣した。家康も三万二千余の兵を率いて九月一日に江戸 を出陣すると、同十四日正午前に諸将の待つ赤坂に着陣、岡山(戦後勝山に改称) に陣を置いた。一豊は浅野幸長・生駒一正・堀尾忠氏とともに家康本陣の南西麓 ・西牧野村に布陣している。

同日、石田三成の家老・島左近と宇喜多秀家の家老・明石全登らが赤坂の中村・有馬勢に奇襲を挑み小戦闘が行われたが(杭瀬川の戦い)、大勢に影響はなかっ た。そして西軍が夜になって大垣城を出て西に向かうと、すかさず後を追い関ヶ 原において両者は対峙した。

時に慶長五年九月十五日朝のことである。

 

関ヶ原


両軍決戦地に建つ碑(関ヶ原町)

 

西軍は実質指揮官の石田三成が小関村笹尾山に本陣を据え、島津義弘は小池村 神田、小西行長は島津陣西側裏手の天満山北峯(北天満山)、宇喜多秀家は天満山 南峯(南天満山)へとそれぞれ布陣、関ヶ原の西を固めた。また大谷吉継は藤下村 藤川台に戸田重政・平塚為広らと中山道を押さえる形で備え、街道向かいの松尾 山には小早川秀秋が陣を置き、そして毛利勢(毛利秀元)は関ヶ原の東・中山道の 南にある南宮山頂(垂井町)に陣を置き、北東麓に長宗我部盛親や長束正家・安国 寺恵瓊らが控えた。

東軍勢は一番隊(先鋒左翼)の福島正則が中山道南側の松尾村大関に、加藤嘉明 ・筒井定次・田中吉政は順次中山道の北に、さらに藤堂高虎・京極高知は中山道 の南・柴井(現関ヶ原中学校付近)にて小早川・大谷勢に対する形で布陣、二番隊 (右翼)は黒田長政・加藤貞泰・竹中重門・細川忠興・稲葉貞通・寺沢広高・一柳 直盛・戸川達安・浮田直盛らで、黒田・加藤・竹中は岡山(丸山)の麓に布陣して 石田隊に対峙、他は中山道の北・中筋(中央部)に南北に並び、島津・小西隊と向 き合う形となった。

三番隊(中央勢)は井伊直政・松平忠吉・本多忠勝および寄合衆と呼ばれる混成 隊によって形成され、本多忠勝は十九女池(つづらいけ)の西、伊勢街道東側に桑 山直晴兄弟・山名禅高・平野長泰らを従えて布陣、南宮山方面の敵が伊勢街道か ら関ヶ原に侵入してくるのに備える。井伊直政は茨原(現THK岐阜工場敷地内)に 陣し、少し下がって松平忠吉がこれに並ぶ。その北側には寄合衆四隊が続くが、 その中には赤井忠家父子・別所重治・亀井茲矩・三好為三・兼松正吉らの名が見える。

 

南宮山方面の敵に対しては池田輝政が御所野に、浅野幸長が垂井一里塚にそれぞれ陣し、ここから野上村(関ヶ原東部)までの中山道の左右には、山内一豊以下 中村・生駒・蜂須賀・有馬らが控えた。これらは南宮山の敵に備えると同時に、 万一の際に家康の退路を確保する役割があったと見て良いかと思われる。そして家康は初め桃配山に本陣を置き、最終的には関ヶ原・陣場野へと陣を移している。

写真: 一豊の布陣した野上村周辺(推定・関ヶ原町)

戦いは午前八時頃に開始されたが、西軍の小早川秀秋の寝返りによる影響が大きく、わずか半日であっけなく勝敗は決した。東軍の大勝である。野上村にいた 一豊は毛利勢が南宮山を動かなかったこともあり、ほとんど戦闘には参加していない。しかし家康は先の小山評定の席上においての発言を大きく評価、戦後の論功行賞で一豊に長宗我部氏の領国・土佐二十万石余を与えたのである。

一豊はついに一国の主となった。

by Masa

 

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