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戦国魂 今日の出来事

■【家康、大坂方に最後通牒】元和元年(1615)4月23日

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徳川家康が豊臣氏に対し、大坂退去または浪人解雇を求める最後通牒を突きつける。

 この前年の十一月、豊臣家と手切れになった徳川家康は、全国の諸大名を動員し二十万もの大軍を率いて大坂城を包囲、周辺各所で激戦が展開されました。大坂方は後藤基次(又兵衛)・木村重成・真田信繁らが奮戦、戦いが長期戦の様相を呈し始めたこともあり、兵糧の欠乏や長陣となることを懸念した家康は、大坂方と和平交渉を進めました。初めは和平に消極的だった淀殿ですが、徳川方の放った大砲の弾が天守閣の柱を直撃、侍女数名が即死するという事態が起きると、恐怖した淀殿は急遽和議に応じたといいます。和議の条件で主なものは、「二の丸および三の丸の破壊」と「惣掘を埋めること」でしたが、大坂方はこれを受け入れ、十二月十九日に和議が成立しました。

 徳川方は早速二十三日から掘の埋め立てを開始しますが、外堀のみならず内堀まで埋め始めたため、豊臣家は家康に抗議しました。通常「惣堀」とは惣構(城郭)をとりまく堀の(外堀)のことを意味し、豊臣家としては当然外堀だけならということで条件を受け入れたわけです。しかし「惣堀」は「総堀」、つまり城郭内の全ての堀という意味にも取れるところに、豊臣家にとっての落とし穴がありました。家康は豊臣家からの抗議をのらりくらりとかわして時間を稼ぎ、結局全ての堀を埋め立てます。

 こうなっては再戦は時間の問題でした。というより、家康はそうさせたかったのかもしれません。この年の三月十二日、京都所司代板倉勝重から「大坂方再挙」の一報を受けた家康は、豊臣氏に対して大坂城を退去するか、あるいは召し抱えた浪人を全て解雇するかのいずれかを実行するよう要求します。

 もはや再戦は必至となりました。将軍秀忠は四月一日に畿内の諸大名に対して大坂城の監視を命じ、十日に大軍を率いて江戸を発ちました。家康は四日に駿府を発し、十八日に京へ入って秀忠の到着を待ちます。二十一日に秀忠が伏見城へ入ると、この日大坂方に対して先に提示した条件の実行を迫る最後通牒を突きつけました。しかし大坂方は二十六日に大和郡山城(奈良県大和郡山市)を攻略する挙に出たため、ここに大坂夏の陣が開始されることになります。