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Vol 5. 越後の内乱と本能寺の変

兼続が初めて城主となった与板城は、現在の長岡市与板町 (よいたまち) 与板、長岡市役所与板支所(旧与板町役場) の南西約1200m ほどの地点に位置し、軍事・交通の要所である。通称を城山 (じょうやま) と言い、標高104mの山頂にある本丸から南へ二の丸・三の丸と順に隣接して続き、東側に流れる諸川を内堀とし、信濃川を外堀とした佇まいであった。

さて、前回に述べた直江信綱の奇禍は天正九年 (1581) 九月一日のことである。同年十月三日に黒金景信が兼続に送った書状は宛名が「樋口与六」となっているが、十一月十九日の兼続宛須田満親書状では「直与」すなわち直江与六と見えることから、兼続が与板城主となったのはこの間のことである。ところがこの時期、越中では一進一退の状況が続き、越後では不穏な空気が漂っていた。下越の新発田城主・新発田重家が六月に離反していたのである。

余談だが、越後は春日山城周辺の南部は上越、兼続の与板城など中央部は中越、北部の新発田城は下越というふうに上・中・下と大きく分けて呼ばれている。この順は国の呼称にも見られる (上総・下総、越前・越中・越後等) が、成立当時の都 (奈良あるいは京都) に近い方が「上」または「前」である。

新発田重家は伯耆守綱貞の子で、尾張守長敦の弟である。新発田氏は揚北衆 (あがきたしゅう) と呼ばれる国人の代表格の一人で、上杉謙信の下で川中島合戦を始め数多くの武功を上げるなど、自他共に認める働きをしていた上杉氏の重鎮である。重家は初め五十公野 (いじみの) 氏の養子となって五十公野治長と名乗っていたが、前年に兄長敦が病死したため新発田氏の家督を継ぎ、重家と改名していた。重家は御館の乱勃発時には景勝を支持、景虎方となった加地秀綱 (謙信の甥にあたる) を下し、乱に乗じて越後侵入を企てた蘆名盛氏の兵を撃退するなど、景勝の勝利・家督相続に大きく貢献していた。

その重家が景勝に背いた。理由は御館の乱後の恩賞がほとんど貰えなかったことである。ようやく晴れて上杉氏を継いだ景勝としては、まず優先的に自らの直近の周囲を固めておかなければならなかったという事情はあった。しかし、これでは亡兄長敦以来上杉家に貢献してきた新発田氏としては収まらない。こうして不満を募らせていた重家に、越後を窺う蘆名盛氏・伊達輝宗や織田信長が手を差し伸べ、ついに重家は景勝に反旗を翻したのである。これが六月十六日のことで、兼続が与板城主となったときには既に重家離反から四ヶ月が経過していた。

織田信長には手取川で謙信に煮え湯を飲まされた恨みがあった。信長はかねてより北陸方面司令官として柴田勝家を差し向け、着々と攻略を進めた勝家は前年には加賀を平定していた。勝家の麾下には佐々成政・前田利家・佐久間盛政といった名だたる武将もおり、景勝はいきなり越後国主としての正念場を迎えたわけである。

天正十年に入り、景勝は重家討伐の軍を差し向けるが失敗、その後は本庄繁長らに重家を押さえさせ、自らは西から攻め寄せる柴田勝家の迎撃を行った。三月十一日には景勝と結んだ一向一揆の将・小島職鎮が越中富山城を落としたまでは良かったが、同じ日に信長は甲斐天目山麓に武田勝頼を滅ぼしており、これを機に勢いに乗った柴田勢との戦いが一層激化、富山城もすぐ取り戻されてしまう。さらに柴田勢は上杉方の魚津城に攻めかかってきたため、景勝は上条政繁・斎藤朝信らを送り、城将たちを激励して堅守を命じつつ、自らも同城救援に向け出陣した。ところが、織田方の将で信濃川中島一帯を制圧した森長可が、このとき景勝の留守に乗じて北上し越後境を侵してきたため、景勝は春日山城に引き返さざるを得なくなってしまう。これが五月二十七日のことである。

景勝が春日山城に帰り着いたばかりの六月二日早暁のこと、宿敵織田信長は京都本能寺にて明智光秀の謀反によりあっけなく滅んだ。しかし、まだそうとは知らない柴田勢はこの日に魚津城に総攻撃をかけ、翌三日についに城を落とし、城将中条景泰らは自刃して果てたのだが、その模様がすさまじい。景泰らは「焼けて誰の首だかわからないと見苦しい」と自分の名を書いた札に針金を結い、それぞれ耳に通してから自害したという。

意気軒昂たる柴田勢であったが、四日に本能寺の変報が魚津城にも届くと、混乱して撤退していった。信長滅亡により森長可も兵を退き、西と南からの脅威はとりあえずなくなった。しかし今度は信濃において北条氏直と対峙するなど、景勝に息を休める暇はなかった。

さて兼続であるが、同年四月一日には景勝の臣・上条政繁から、「新発田重家については本庄繁長を使者として派遣し、重家と交渉させるのが良いと思うが、それについて景勝によろしく取りなしてくれるように」との書状が「直江与六」宛に届いている。

また魚津城攻防戦の行われていた四月二十三日、城内に籠もる中条景泰・竹俣慶綱以下の諸将からも、四十日にも及ぶ死闘の状況と、この上は滅亡のほかないという悲痛な内容の書状が同じく「直江与六」宛に届いている。つまり、既にこの頃から戦略上の要請や戦況報告といった重要な案件は、兼続を通じて伝達されていたことが窺える。

信長の滅亡により、景勝は当面の危機はとりあえず脱したが、中央の政局はめまぐるしく動く。信長を滅ぼした明智光秀はわずか十一日間の「天下」で羽柴秀吉に敗れて滅び、秀吉は織田家の家督相続会議で柴田勝家と決定的な対立を見ると、早々に景勝に働きかけてきた。景勝も秀吉と協力する道を選び、天正十一年正月十二日に越中瑞泉寺の僧らに命じて秀吉のもとへ誓詞を持たせる。秀吉の対応も早く、二月七日付で景勝の臣・須田満親に「自分からも誓詞を入れる」と記した書状を認め、また勝家の動きを牽制するため、景勝に越中への出馬も要請した。三月十七日付の書状では、「越中へ侵攻してもらえれば、能登も含めて切り取り自由」とまで書いている。

景勝にとって秀吉と勝家の対立は幸運であった。もし両者が仲良く手を携えようものなら、上杉家の存亡に関わる危機に陥ったかもしれない。

by Masa

 

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