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Vol 6. 秀吉への臣従と新発田討伐

さて、本能寺の変後に羽柴秀吉と柴田勝家による戦い、いわゆる賤ヶ岳の戦いが起こるが、景勝は秀吉の期待通りの行動は起こさなかった。その理由の一つは依然として新発田城に籠もって抵抗を続ける重家の存在だが、もう一つは北条父子・真田昌幸・徳川家康といった面々の動向である。加えて勝家の麾下で越中富山城を守る佐々成政は戦巧者で知られる猛将、こういう状況下では如何に景勝と言え、そう簡単には腰を上げられなかったのである。

こうして景勝は動かなかったが、同様に佐々成政もまた動けなかった。つまり、結果的には景勝の存在自体が佐々成政への牽制ともなり、秀吉への援護射撃となっていたのである。秀吉は機を逃さず近江賤ヶ岳にて勝家勢を撃破、勝家は三日後に居城越前北ノ庄城にて妻お市の方とともに自刃した。

さらに秀吉は精力的に動き、信長二男の信雄を利用して柴田勝家方だった三男の信孝を尾張内海野間に滅ぼした。ところが信雄は程なく秀吉と対立、徳川家康と同盟を結んで対抗したことから、秀吉は信雄・家康連合軍と戦うことになった。

天正十二年三月〜四月に両軍は小牧山城〜長久手周辺で衝突、勝敗は付かず引き分けに終わったが、秀吉方ではこの戦いで池田恒興・森長可という有能な将を失った。実質的には秀吉の敗北と言ってもおかしくない結果となったのである。 (小牧・長久手の役) 。

さて同年九月、秀吉は佐々成政攻略にあたり、木村秀俊を使者として改めて上杉家との好誼を求める起請文を送ってきた。これには伏線があるので、巷説ではあるが少しご紹介する。

景勝は秀吉と柴田勝家が対立した際には秀吉に協力してはいたが、この時点では臣従したわけではなく、あくまで対等の立場における協力であった。その際景勝は、
「輝虎 (謙信) 公が切り従えた国々のまだ五分の一も手にしていないのに、天下に名を響かせている秀吉と誼を結んで残りの国々を平定しても、世間は景勝の実力で取ったのではなく秀吉の威光で平定したと言うであろう。それでは面白くない」

景勝が相当なプライドを持っていたことが窺える。そして成政攻略の協力要請に対しては、
「魚津城は成政のために落とされた。当時は国内の事情で彼と雌雄を決することが出来なかったが、越中は我ら累代の所領につき、必ず成政を滅ぼして見せよう。しかし、この国を討つことは秀吉公と争っているようにも思われる。私としてはそうは思われたくないが、さりとて一度も成政と戦わずに秀吉公の希望にというのも面子に関わる。ここは一度越中に出陣し、越後武者の弓矢の執り様をあなた (木村秀俊) にお見せした上で、都への餞といたそう」

景勝はこう言うと、本当に八千の兵を編成して十月二十三日に越後を出陣、成政方の越中宮崎・境城を一気に攻め落として滑川城へ迫り、守将を配した上で諸所に放火して引き上げるという示威行動を起こしたのである。成政は直前の九月に秀吉方前田利家の属城で、奥村助右衛門永福の守る能登末森城攻略に失敗して孤立しており、防戦に徹したが景勝の行動を目のあたりにして窮し、翌月二十三日には決死の覚悟で家康に助けを求めるべく「さらさら越え (ザラ峠越え) 」を敢行して浜松へ向かうことは有名である。成政は苦労して浜松の家康のもとにたどり着くが、すでに家康は二男於義丸 (後の結城秀康) を人質に出して秀吉と講和した後で、失意のうちに帰国している。

秀吉は紀州・四国をほぼ平定すると、ついに佐々成政をも軍門に下した。そして、石田三成・木村秀俊と雑兵を三十八人を伴っただけの「丸腰」状態で、ふらりと景勝の臣須賀修理亮の守る越後越水城 (現・勝山城か) に現れたという。以下は史実的には確かとは言えないが、巷に伝えられる秀吉と景勝の会見の様子である。

秀吉は須賀とかねて顔見知りの木村秀俊に呼び出させ、景勝との面談を求めた。須賀はただちに糸魚川に在陣していた景勝に早馬を立てるとともに、丁重に秀吉を城内に導いてもてなした。急報を受けた景勝は、須賀からの「もし秀吉を害するならば私が討ち取ります」という申し出には耳を貸さず、こう言った。

「もはや天下の権を司る秀吉が、この戦国の中に数多くの難所を越えてはるばる越後までやってきたのは、ひとつは先年の約を違えず景勝と誼 (よしみ) を結ばんため、ひとつはこの景勝が卑怯な振る舞い (暗殺) をしないと信じてこそ来たのである。それをここで討ち取ってしまっては、景勝が今までに取った弓矢の名を汚すであろう。ここは彼と会談して望み通り親しくなるか、さもなくば一旦彼を帰した上で、改めて正々堂々と勝負を決するべきである」

こうして景勝は直江兼続・藤田信吉・泉沢久秀らを伴い、百にも満たない人数で越水城へ向かった。 
城内で一通りの挨拶の後、秀吉・三成・景勝・兼続の四人だけとなって四時間に及ぶ密談を行ったが、これが兼続と三成の初めての出会いであった。両者ともに二十五歳の時のことである。これを世に「越水の会」と呼ぶ。

新発田重家との対峙は、本能寺の変以降も続いていた。兼続も出陣するが新発田勢の抵抗は頑強で、戦いは膠着状態となった。天正十四年 (1586) 五月、景勝は四千の兵を率いて上洛の途につき、六月七日に入洛した。そして十四日に秀吉に謁すと、景勝は従四位下左近衛権少将に叙任され、同時に兼続も従五位下に叙された。景勝は七月六日に春日山城に戻ると、八月には再び重家討伐に向け動き出した。兼続は御弓頭として従軍している。

各所で激戦が繰り返されたが、景勝は翌天正十五年九月七日に加地城 (新発田市) 、十四日に赤谷城 (同) を落とすと、総力を挙げて新発田城に迫った。そして十月二十三日に五十公野 (いじみの) 道如斎 (信宗) の拠る五十公野城を攻略、引き続き翌日に新発田城へ攻め掛かった。重家は染月毛の馬に跨り、備前兼光三尺三寸の太刀を振りかざし、精兵七百余を率いて景勝勢に突撃したという。しかしついに力尽きて自刃、ここに七年の長きに渡った「新発田の乱」は終わった。 (日付には異説あり)

by Masa

 

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