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Vol 11. 大減封と大坂冬の陣

関ヶ原における西軍の敗戦により、上杉家は重大な岐路に立たされた。もはや徳川家康につけいる隙はほとんどない。兼続は景勝とともに会津で事態の成り行きを見守った。この上は武門の意地を貫いて決戦し玉砕するか、それとも家名の存続を優先させて家康に膝を屈するか、両者のいずれかを選択しなければならない。景勝の性格を考えると玉砕の道を選ぼうとしていたのかもしれないが、おそらく兼続が強く降伏を勧めたような気がする。そして景勝は熟考の末、降伏の道を選んだのである。

程なく、家康の策士本多正信から、上杉家の伏見留守居役の将・千坂対馬守景親を通じて降伏の労を取ろうと申し入れがあったことも、景勝の決断を促した要因のひとつだったかもしれない。兼続はこの機を逃さず石田三成と親交があった結城秀康に取り入ると、秀康もまた名家を滅ぼすことを惜しみ家康に謝罪することを勧めた。ちなみに結城秀康は三成が家康より近江佐和山城への蟄居を申し渡された際に家康の意を受けて三成を説得、京都から佐和山まで護送を務め(秀康本人は近江瀬田まで)、礼として三成から名刀「石田正宗」を譲り受けた間柄である。こうして翌慶長六年(1601)八月十六日、意を決した景勝は兼続とともに大坂城の家康のもとへ伺候、謝罪し降伏した。

家康の決断は早く、上杉家は改易は免れたものの、同月二十四日付けで会津百二十万石から米沢三十万石へと減封された。これとて、本来なら上杉家は改易、兼続は切腹を申し渡されても仕方がないくらいだったが、やはり家康は上杉家の家格や実力ならびに兼続の人物を高く評価していたのであろう。景勝は三ヶ月後の十一月二十八日に米沢へ入った。

ここに長きにわたって続いた戦乱は一段落し、家康は慶長八年(1603)二月、征夷大将軍となって江戸幕府を開き、実質的に天下を統一した。

米沢は慶長三年より兼続が領して町作りを行っていたが(自身六万石、与力分合わせ三十万石)、そこへ上杉家が入って人口が一気に何倍にも増えたため、新たな城下町作りに励んだ。兼続は米沢城の整備に着手すると、並行して治水事業にも積極的に取り組んだ。城下の東を流れる松川(最上川)に約三キロメートルに及ぶ石積みの谷地河原堤防(通称「直江石堤」)を築いて洪水を防ぎ、また数箇所に堰を設けて城下への水を確保した。同時に新田開発にも努め、表高の三十万石に対して実質的には五十万石を超える収入が得られるようになったという。

しかし、一方で兼続は軍事面での準備も抜かりなく考えていたようで、領内において鉄砲の製造も始めている。これは平城である米沢城の防御面を考えた上でのことと思われ、駒木根右近ら蒲生家で鉄砲術に長けた者を召し抱えるとともに慶長九年 (1604)、近江国友村から鉄砲師の吉川惣兵衛を、また和泉堺から和泉屋松右衛門を招き、城下南の外れに位置する吾妻山中腹の白布(しらぶ)高湯(現白布温泉)に鍛造工場を作り、千挺の火縄銃を製造させたという。城下から四里半もの距離がある人里離れた山中に工場を設けたのは、一つには人目を避け密かに製造するためと、もう一つは鉄砲の製造に必要な大量の炭の供給が容易く行えたことが考えられる。また、白布温泉の泉質が含石膏・硫化水素泉すなわち「硫黄泉」であることから、火薬の原料となる硫黄が産出されていた可能性があり、現地の旅館には先祖が鍛冶職人の賄い等の世話を行った記録や伝承が今も残っている。そして兼続は同年十一月に鉄砲の射撃術や心構えなどをまとめた『鉄砲稽古定』十五ヵ条なるものを作成し、射撃の訓練を奨励している。そしてこれが後の大坂の陣で威力を発揮することになる。

これらに従事した鉄砲職人たちは、後に米沢城下に屋敷を与えられて扶持を受け、引き続き鉄砲の製造・修理を続けたといい、近年まで彼らが集住した一角が米沢市鉄砲屋町としてその名を留めていた(現在は中央三丁目一帯)。

家康が幕府を開いたことで徳川氏の威は天下に広まったが、依然大坂城には豊臣秀頼が健在であり、豊臣寄りの大名も多く徳川氏の天下は盤石とは言えない一面もあった。そして慶長十九年、ついに両者は衝突し大坂の陣が起こる。

大坂の陣勃発の原因についてはここでは敢えて触れないが、その結果は徳川方が豊臣家を滅ぼし、天下は完全に徳川氏が掌握したことは事実である。むろん最初の戦いとなった冬の陣には上杉家も従軍したが、二度目の戦いである夏の陣では京都守備を務めたため戦場には赴いていない。直江兼続最後の戦場となった大坂冬の陣は「鴫野(しぎの)の戦い」と呼ばれ、次のようなものである。

鴫野村は大坂城本丸から北東へ約半里、大和川の南岸に位置する。周囲が低湿地帯のため軍の進退は堤防上しか行えないため、豊臣方は鴫野堤に三重の柵を設置し、黄母衣衆の一人である井上頼次と大野治長配下の士数名が兵二千余を率いて守備していた。鴫野口へ兼続を含む上杉景勝勢五千が到着したのは十一月二十五日のことで、その南に後詰として堀尾忠晴、その後方に丹羽長重がそれぞれ五百の兵を率いて布陣した。ちなみに鴫野の対岸・今福村には佐竹義宣が陣を置いている。そしてこの日、早速家康から明朝佐竹勢とともに大坂方の兵を撃退せよとの命令が下り、翌二十六日早朝に景勝は攻撃を開始した。先鋒は須田長義、二陣は安田能元、三陣は水原親憲が務め、いずれも鉄砲隊を有する陣容である。

上杉勢は大坂方の守る鴫野堤の柵を激しく攻撃、この戦いで守将井上頼次は戦死した。ちなみに井上頼次は美濃斎藤家の宿老・長井道利の子で、斎藤道三の甥に当たる人物である。兼続は追撃にはやる兵を押しとどめ、奪った柵を補強して陣を立て直すが、今福方面では佐竹隊が苦戦していた。この方面に向かった大坂方の将は後藤基次・木村重成である。上杉勢は援護射撃を行ったものの、結局大坂方が優勢となった。ちなみにこの戦いで後藤基次は腕に銃弾を受け負傷しているが、これは兼続配下の兵による銃撃だという。

しかし大坂方も天満から七手組や渡辺糺・竹田永翁らの援軍が次々と押し寄せたため、須田隊は一の柵を死守しようとするが苦戦、安田隊も後退した。しかし水原隊の猛烈な連射で大坂方が浮き足立つと、そこへ鉄(くろがね)泰忠が側面から銃撃を加え、力を得た須田・安田両隊も引き返して力戦、大坂方を撃退した。

こうして兼続最後の戦いは終わったのである。

by Masa

 

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