■ 真田幸村
「真田日本一の兵」
六連銭(六文銭)の旗を翻し、大坂の陣の際には徳川家康をあと一歩の所まで追い詰めながら果たせず、ついに力尽き討たれた名将・真田幸村。この「幸村」という名は後世に付けられた名であり、左衛門佐信繁(さえもんのすけ・のぶしげ)というのが正しい名乗りなのだが、あえて広く知られる幸村の名でご紹介する。
幸村は永禄十年(1567)に昌幸の二男として生まれた。兄は後に松代藩主となった伊豆守信之である。幼名弁丸、通称は源次(二)郎といった。父の昌幸は幸隆の三男で、当時武田信玄の近侍として仕え武藤喜兵衛と名乗っていたが、天正三年(1575)の長篠合戦で二人の兄(信綱・昌輝)が戦死したため真田氏の当主となり、
やがて武田氏が滅ぶと独立する。
昌幸は乱世を乗り切るため北条・徳川・上杉と次々と主家を変え、幸村は同十三年八月に人質として春日山城の上杉景勝のもとへ送られた。後に昌幸が豊臣秀吉に属すことになると今度は大坂城へ送られるなど、若き日の幸村は人質生活を余儀なくされるが、幸村は秀吉に気に入られて馬廻りとなり、大谷吉継の娘を室
に迎えている。文禄三年(1594)十一月、幸村は従五位下左衛門佐に叙任、豊臣姓を与えられた。
秀吉も没した慶長五年(1600)六月、徳川家康は上杉景勝が謀反したとの理由で会津征伐に出陣、幸村も父昌幸に従って兄とともに従軍した。ところが七月二十一日のこと、下野犬伏に至ったの昌幸のもとに石田三成からの密書が届き、西軍(三成方)への加担を求めてきたのである。父子で協議した結果、昌幸と幸村は西軍に、兄信之は東軍(徳川方)にと分かれることになり、幸村は父とともに引き返し上田城へと戻った。
家康も三成の挙兵を知ると、直ちに軍を返した。昌幸と幸村は上田城に籠もって二千の兵を指揮、中山道経由でやってきた家康の子・秀忠の別働隊三万八千(中に兄信之もいた)を謀略を駆使して足止めした。昌幸父子の態度に業を煮やした秀忠は城を攻撃するが逆に大敗を喫し、結果的に関ヶ原の決戦に間に合わなくなってしまう。ここまでは昌幸・幸村の思惑通りに事が運ぶのだが、西軍は九月十五日の決戦でわずか一日にして敗れ消滅、昌幸・幸村は敗軍の将として処分を待つ身となった。信之の必死の嘆願で切腹だけは免れたものの、幸村は父とともに高野山へ配流された。従う者はわずか十六人の家臣と妻子のみであった。一行は高野山蓮華定院に入るが、程なく山麓の九度山に移り、そこに一庵を結んで隠棲生活が始まった。今も善名称院(真田庵)として現地に残っている。
紀州浅野家の監視下に置かれた九度山での生活は窮屈なものだったが、幸村は「真田紐」を考案し、配下の忍びたちにそれを行商させることで諸国の実状や情報を探ったという。こうして心中深く再起を期していた同十六年六月四日、父昌幸が六十五歳(六十七歳とも)で病没、一周忌が済むと家臣達の多くが国元に戻っていった。孤独になった幸村はただ耐えた。その頃幸村が国元信濃に送った書状にこう見える。
「こちらに変わりはありませんが、この冬は何かと不自由で心細いことです」
「年を取ったのが残念で、病気がちになり歯も抜け落ちました。ひげももう、黒いところはあまりなくなってしまいました」
しかし、天は幸村に今一度活躍の場を与えた。大坂城の豊臣秀頼が目障りな徳川家康が、方広寺の鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」という文言を「家康の文字を分断した上に、豊臣氏を主君として楽しむ、すなわち徳川家を呪ったものである」というとんでもない解釈をして難癖を付け、大坂討伐へと動いたのである。こうして世に言う「大坂の陣」が起きるのだが、大坂方が幸村の存在を見逃すはずはなかった。
同十九年十月、豊臣秀頼の使者が黄金二百枚・銀三十貫という大金を携えて極秘裏に幸村のもとを訪れた。これに応じた幸村は最後まで残った家臣と妻子を連れ、監視の目をくらまして高野山を抜け出し大坂入城を果たす。むろん幸村は一隊の長として待遇されるが、それだけのことであった。幸村と同じく入城した後藤又兵衛基次もそうだが、大坂城の首脳である大野三兄弟(治長・治房・治胤)や秀頼の母・淀殿らからは「所詮浪人上がり」と見下されていた。幸村は籠城を下策とし、まず京を抑えて宇治〜瀬田のラインで迎撃すべきとの献策をするが、野戦指揮の経験に乏しい大野兄弟から却下され、籠城と決まった。結局は信頼されていなかったのである。
同年十一月十五日、家康・秀忠父子が京都から大坂へ軍を進め、「冬の陣」が始まった。二十六日には徳川方の佐竹義宣・上杉景勝勢が大坂方の後藤基次・木村重成と今福・鴫野で激突した。大坂方は優位に戦いを進め、幸村は城の防衛に不安の残る三の丸南側に真田丸と呼ばれる出丸(砦)築き、鉄砲隊を配備して攻撃に備えた。そして幸村は十二月三日〜四日にかけて、真田丸に攻め寄せた前田利常や越前松平勢を見事な用兵で散々に破り、その存在を敵味方に広く知らしめたのである。
その後和議によって一旦停戦となるが、家康はそのまま事を収める気は毛頭無く、約束に反して大坂城の全ての堀を埋め、丸裸にしてから再戦へと持ち込んだ。こうして「夏の陣」が起こるが、もはや幸村は勝利を諦め、ただ真田の名を後世に立派に残すべく潔く戦って散ろうと、それだけを考えて行動したようだ。いや、状況がそうせざるを得なかったのである。
幸村の活躍は素晴らしかった。赤で統一した騎馬隊を率い、影武者を立て、少数精鋭部隊を自由自在に操りつつ敵を撃破していった。そしてついに家康本陣にまで切り込んだのである。かの秀吉にさえ負けなかった家康自慢の本陣旗本衆が逃げに逃げた。本陣は荒らされ、三方ヶ原以来倒れたことのない「厭離穢土欣求浄土」の軍旗や金扇の馬印が幸村隊の馬蹄の下に踏みにじられ、家康も自刃を覚悟した程だったという。しかし、悲しいかな、そこで武運が尽きた。
真田隊は一人残らず戦死した。力尽きた幸村は自害するべく安居天神にたどり着くが、そこで越前松平勢の鉄砲頭・西尾仁左衛門に討たれた。敗れて首を取られはしたが、その戦い振りは敵にも深い感動を与えた。剛勇で知られる島津家でも「真田日本一の兵、古よりの物語にも、これなき由」と幸村の活躍を讃え、遺髪一筋に至るまで取り合いになったという。
時に元和元年(1615)五月七日、享年四十九歳であった。翌日には大坂城も落ち豊臣氏は滅亡、ここに戦国の戦いは終結することになる。