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第二次上田合戦 『犬伏の別れ』U〜 表裏比興(ひょうりひきょう) 〜


敵を篭絡することに長け、決して本心を明かさない。真田昌幸、幸村の籠城戦。

(1)表裏比興(ひょうりひきょう)
(2)戸石城:開城
(3)二度、徳川勢を破る
(4)関ヶ原合戦後の恩賞




 
●表裏比興(ひょうりひきょう)

 家康は三成挙兵の報を聞くと直ちに会津討伐を中止し、軍を二手に分けて西へ向います。 家康は江戸を経て東海道をすすみ、秀忠は八月二十四日、榊原康政・大久保忠隣・本多正信・酒井家次・本田忠政・牧野康成・仙石秀久、 そして真田信之を従えて宇都宮を発し中仙道を目指します。

九月二日、小諸城に入った秀忠は本多正信の制止を振り切り、昌幸の率いる2000の軍勢が籠もる上田城に降伏勧告を行います。 本多忠政(忠勝の子。信之の義兄)・真田信之を使者として昌幸は上田城外の国分寺で会見します。昌幸は

”利、我に無し”

と降伏の旨を伝えます。秀忠は昌幸が剃髪したと聞いて、これを恭順の意と解釈し、 徳川因縁の地:上田で無益な合戦をせずに主力を温存できたと安堵します。 ところが一向に昌幸が開城の手続きを進めません。いらだった秀忠は再び使者を送ります。

『返事が遅れたのは籠城の準備がまだ整っていなかったため。 すでに兵糧は整い、合戦の備えは完了しました。いざ、お相手いたす』

と昌幸は使者に対し蒼天の霹靂ともいえる大胆不敵な対応をします。 まさしく表裏比興(くわせものの意:太閤秀吉が昌幸を評した言葉)の昌幸の振る舞いでした。 秀忠は仰天し、またも昌幸に謀られたと激怒して上田城の東5キロに位置する染屋台に陣を張ります。

このときの秀忠の行動は疑問点が多いとされますが、それは武田信玄の勇名を超えるために高天神城にこだわった武田勝頼に似ていると考えます。 重要な合戦の前にかつて徳川勢が大敗した上田で勝利して自らの武名をあげれば関ヶ原での諸将への采配が円滑に進むと判断したのではないでしょうか。
このとき上田城の支城:戸石城を守っていたのは真田幸村でした。幸村は夜陰に乗じて染屋台の徳川勢に奇襲すべく城を出ますが、 さすがは徳川の主力、その陣備えは堅固で利なしと悟り兵を収めて城に戻っています。

 

● 戸石城:開城

秀忠は真田信之に上田城の支城:戸石城攻略を命じますが、幸村はあっさりと城を信之に開城し、上田城に引き払います。 『真武内伝』ではこれは昌幸が信之に手柄を立てさせるために行った処置であるとしています。
無血で戸石城に入った信之はそのまま城の守備につきます。徳川勢の意気は大いに高まりますが関ヶ原合戦はあと十日で始まります。4万近い軍勢が上田から美濃まで到達するには十日はかかるため、昌幸は

”我が策成れリ”

と、ほくそ笑んだに違いありません。昌幸は七月二十三日から上田城に戻り、既に籠城の手入れは万全、秀忠の本隊を上田城で待ち構えます。
秀忠は上田城近辺に時節が収穫期であったので苅田戦法を用いました。籠城兵は普段は農民として田畑を耕すのでその苦労の結晶、収穫を敵に奪われるのを許すわけにはいきません。なにより合戦後の食料に事欠くため城方は討って出る事が多いのです。城兵が討って出ると苅田部隊の後方から攻撃部隊が押し出して城兵を包み討ち、そのまま城へとなだれ込む戦法です。

 

● 二度、徳川勢を破る

攻撃部隊は苅田戦法によって、作戦通り突出した上田城兵を押し包み、勢いを増して城へなだれ込みました。徳川の誇る旗本の精鋭たちは功名を争い、上田城の外構えまで肉迫します。 この時、城門が開け放たれ城兵が討って出ます。徳川勢は不意をつかれますが秀忠の督戦の下、上田七本槍と呼ばれる旗本7騎が踏みとどまり、多勢も助けて徐々に真田勢を押し返し始めます。

真田勢はついに複雑な町家に逃げ込み徳川勢はこれを追います。が、突如上田北西にある虚空蔵山の林から真田の伏兵が現れ鉄砲を撃ち掛けて染屋台の秀忠の本陣におそいかかりました。 虚空蔵山の銃声にあわせて今度は上田城:大手門が開き鉄砲を撃ち掛けて後、幸村率いる一隊が猛然と徳川勢に襲い掛かります。
徳川勢は大軍であるがゆえに複雑な町家の狭い隘路に 封じられ鉄砲の的になってしまい城壁を登った兵士達も第一回上田合戦と同様、鉄砲でことごとく撃ち落されました。

秀忠は続々と援兵を送りなんとか混乱を収拾しますが、 頃合になると幸村を始め、城兵はこぞって上田城に戻り固く門を閉ざして防戦に切り替えます。 秀忠は全軍崩壊を食い止めたものの、最精鋭部隊の旗本の大軍を投入したにもかかわらず兵力差からは考えられない苦戦を強いられました。 兵の疲労・士気の低下は深刻であり、事態の収束のため本多正信は大久保忠隣の旗奉行:杉文勝、牧野康成の旗奉行:贄掃部に死罪を申し付けます。

秀忠はかくして上田城攻略をあきらめ、同八日に殿軍を上田に置いて小諸城を出発。多くの落伍者を伴う強行軍で関ヶ原へ急行しました。
同17日、秀忠は木曽路の妻籠で関ヶ原合戦の東軍勝利の報を聞いています。

 

● 関ヶ原合戦後の恩賞

西軍加担の諸大名はほとんど改易か大減封であり苛烈を極めました。徳川家に対し忠義を認められた信之は昌幸の本領沼田・上田領(三万八千石)を安堵され、 さらに加増されて上田藩十一万石(九万五千石とも)の大封を得ました。

これは謀反を起こした父の嫡男でありながら破格の待遇でありいかに信之が家康の信頼を得ていたかが判ります。 しかし信之は父:昌幸とその弟:幸村の助命を落涙して『関ヶ原のわが恩賞にかえて』と懇願し、 妻小松殿とその父本多忠勝も信之に続いて助命を請い、さらには忠勝と同じく徳川三将とも四天王とも呼ばれる重臣:井伊直政にも取り成しを頼み助命を請います。 真田昌幸には二度も煮え湯を飲まされて遺恨は骨髄にまで達していた家康もこの重臣たちの取り成しでついに折れ、死一等を減じ昌幸:幸村を紀州高野山に配流することにしました。
昌幸はこの処遇に涙を流しますが有り難がるどころか

『さても口惜しきかな、内府(家康)をこそ、こうしてやろうと思ったに』

と歯ぎしりをして悔しがったといいます。
この後、昌幸は高野山で死去、次男の幸村は大坂城に入り、
父:昌幸より受け継いだ真田家のお家芸、籠城の極意をもって最後の戦いを演じます。

 

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