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沼田城戦史V〜真田の血統・矢沢薩摩守頼綱勇戦す〜


天正十年(1582)六月二日、 本能寺の変で織田信長が討たれると上・甲・信州に駐軍していた織田軍司令官:滝川一益・河尻秀隆・森長可らは浮き足立ちます。
滝川一益は北条の大軍に破れて伊勢へ逃れ、河尻秀隆は地侍に謀殺されてしまいます。 森長可は信忠までもが本能寺の変で自刃したことを知り海津城を中心とする川中島四郡20万石を打ち捨てて本領の美濃兼山城に戻ります。
ここに空地を巡っての三ツ巴争奪戦が展開されることになります。

(1)矢沢薩摩守頼綱
(2)真田のゲリラ戦
(3)神川の対に矢沢薩摩の軍略あり
(4)沼田の守護神:矢沢頼綱
〜沼田明け渡し〜




 

●矢沢薩摩守頼綱


 昌幸の離反によって沼田〜北条間で再び軍事的緊張が走ります。 北条氏邦は徳川勢と甲斐:新府〜若神子間で睨み合う中、主力より5000の兵を割き十月初旬に沼田城攻略を開始します。

沼田城最南端にある支城:長井坂城、森下城は陥落し、北条氏邦は川額に陣を布きました。氏邦は猛将:猪俣能登守に川田を、上泉主計、難波主税之介に阿曾をそれぞれ兵2千にて攻略に向かわせました。 矢沢頼綱はこのまま北条軍が勢いに乗って支城を攻略すれば沼田城の将兵の士気の低下と内応者がでる危惧を考慮し、 十月十九日、自らが最前線で一戦して籠城の士気を高めようと500の兵を率い再び出陣します。

この時、頼綱64歳。
老齢ではありながら積極果敢な勇将であります。 川田を攻略中だった猪俣能登守は頼綱出陣の報を受けて城の包囲に500の兵を残し、頼綱の布陣する阿曾の北西:沼須ヶ原に向かいました。 猪俣能登守1500、薩摩守頼綱500は激しい野戦を繰り広げます。 猪俣能登守は優越した兵力で押しまくりますが頼綱は少数の味方を督戦して陣を崩すことなく押し返します。
当初の劣勢から猪俣能登守の陣を突き崩した頼綱は首300を討ち取るまで盛り返し、ついに猪俣能登守を砥石明神の境内へ敗走させ大勝果をあげました。

しかし、猪俣能登守の置いた川田包囲軍は川田を陥落させて城将:加藤丹波守は討死しました。 いったんは壊走した猪俣能登守でしたがこの支城を奪ったことで勢いを盛り返しそのまま阿曾の支城へ急行・夜襲を行います。
守将:金子美濃守は合戦が川田で行われていると思い込んで宴を催し500の兵は夜襲の餌食となりました。
金子美濃守は片品川を渡って逃亡しました。 二十一日には長井坂の要害をも失い、二十八日より裸となった沼田城に北条軍5000の総攻撃が開始されます。

 

● 真田のゲリラ戦

矢沢頼綱は寡兵で籠城、三日間城を守り抜き、北条勢は沼田の険は強襲では落ちぬと判断し阿曾に兵を引きました。
頼綱はこれを逃さず、かえって阿曾に夜討ちを掛け優勢に気を抜いていた北条軍に打撃を与え沼田城の守りを固めました。

一方、昌幸は、依田信蕃と共に徳川勢として碓氷峠・松井田城などを攻めて信濃の北条軍と上野との兵站線を破壊します。
さらに前日、北条軍の退路を断つため密かに沼田〜厩橋を繋ぐ津久田城を攻略するというゲリラ戦が行われました。 北条軍はゲリラ戦に苦しみ沼田での短期決戦をあきらめ兵をまとめて厩橋城(前橋城)に退却しました。

八月二十二日には南信濃の木曽義昌が徳川方に付きます。 さらに、長期対陣する北条軍不在の間に佐竹義重が関東を扼し始めます。 かくして北条家は、この膠着に利なしと判断し十月二十九日に徳川家との和議を成立させます。

和議の内容は
●甲信は徳川家康の領国とする
●上野は北条家の領有とし、上州:沼田の真田昌幸には代地を与えることする。
●家康の娘を北条氏直に嫁がせる


などでした。


● 神川の対に矢沢薩摩の軍略あり

天正十一年(1583)八月、北条氏照は上杉家の手に渡っていた厩橋城を攻め、城主:北条高広をおって、沼田攻略の機会を狙っていました。 翌年、家康は秀吉との小牧長久手合戦が膠着すると北条との盟約を強固にして後顧の憂いをなくそうと考えます。 四月、家康は昌幸にこの和睦の条件を実行するよう通告します。
しかし、沼田を

『上田と双璧をなす最重要拠点』

と考える昌幸はこれを拒絶、 徳川家との神川合戦へと突入します。

天正十三年(1585)八月、徳川勢は北上して昌幸と神川で合戦しますが敗れて大きな被害を出します。 その後、真田〜徳川は膠着状態〜真田のゲリラ戦へと移り長期戦に入ります。

この動きに呼応して九月、北条氏直が小田原から氏照、氏邦と共に30000の軍勢を動員、 昌幸から後詰を期待できない沼田攻略を開始します。 氏直は軍を2手に分け、氏照は吾妻:今井峠から、自らは勢多郡から沼田領に侵入しました。

頼綱は上杉景勝の後詰を得てここでも積極的に城外での奇襲〜取って返して城に籠るという真田家のお家芸:【ゲリラ戦法】をとり、 北条軍に効果的な攻撃を行います。 頼綱が再び1000の兵を率いて城を出たという報を聞いた氏直は、猪俣能登守に3千の兵を与え迎撃させます。頼綱は、猪俣能登守に攻められて多勢に無勢、名胡桃に逃走しました。
猪俣勢は仇敵:頼綱を追いつめようと、薄根ヶ原まで追い立てますが、榛名の森にいた伏兵と、頼綱の反転:挟撃を受け、更に名胡桃城より鈴木主水正も門を開けて討って出ます。 猪俣勢はまたしても壊走し頼綱は首200を挙げる快勝を収めます。 猪俣能登守の敗退を知った氏直は怒り、沼田城に総攻撃をかけます。

しかし頼綱は、城下の出入り口7箇所に木戸を設けて北条軍を誘い込み木戸を落として火を掛け、孤立した先手を包囲殲滅します。農民までも動員して徹底されたこのゲリラ戦はまたも北条軍に打撃を与えました。 吾妻:今井峠から沼田に向った氏照の軍勢は沼田の支城:川田城に攻め寄せます。ですが、城壁まで近付くと川田城は、もぬけの殻で、寄せ手は北条の大軍を前に城を放棄したと考え入城しました。

ところが、川田城の要害:大竹に突如沼田勢が出現し北条軍は不意を突かれてここでも損害を出してしまいます。 北条氏直に続き、氏照までも戦果無く大きな損害を出してしまい、士気の低下と共に小田原に退却しました。

 

● 沼田の守護神:矢沢頼綱〜沼田明け渡し〜

天正十四年四月、 沼田城奪還に燃える北条氏直は攻略に本腰を入れるため 上野、武蔵、下野、常陸、安房、上総、下総の各支配下から 約70000の兵力を興し出陣します。
対する矢沢頼綱は率いる兵は2000のみしかいませんでした。
厩橋を経由し北条氏直はまず氏照、氏邦、氏規を先手として沼田を攻撃させます。

その頃、長雨が続き利根川・片品川の水量は増し、片品川の橋は全て流されていました。北条の先手隊は橋架・渡河しますが大雨・洪水の中での行軍は難行し、北条軍は段丘上から沼田城を威嚇する構えを取ります。 すると北条の陣所に頼綱の矢文が射掛けられました。
内容は、

【北条はこの小勢の沼田に大軍で攻めてくるというが未だに攻撃の気配はない、早々に合戦なくば兵が退屈して困る】

という大胆で挑発的な内容でした。
5月11日、氏邦は怒りを押さえて頼綱の投降を促す返書を送ります。が、ついに頼綱が投降する気配はなく 5月25日、北条先発隊は劣悪な戦場を尻目に一斉に滝棚の原から沼田城に突撃しました。
この際も天正十三年と同じく、深入りした北条軍は橋を落とされ、木戸によって退路を失います。頼綱は鉄砲を一斉に撃ちかけて北条勢を殲滅します。 北条勢は混乱して同士討ちを起こし、また増水した片品川に落ちて溺死者が続出しました。またしても大きな痛手を被った北条軍は退却の途をとらざるをえなかった。

この頼綱の3度に渡る戦いぶりは神川合戦での昌幸に酷似しており、頼綱の兄、一徳斎:幸隆譲りなのか、甥の昌幸と示し合わせたものなのか・・・ ともかく真田一族のゲリラ戦術の実戦指揮能力はおそらく武田・上杉と並んで戦国最強と謳われる島津氏のそれに匹敵すると思われます。

天正15年2月、北条は4度目の正直で猪俣能登守と太田金山城の由良国繁に沼田攻略を命じますが 、頼綱は片品川にて由良の軍勢を撃破し、猪俣勢を手玉にとって孤立させています。

頼綱、この年、69歳。

上州には信玄を二度撃破した村上義清と長野業正といい、真田幸隆・昌幸・幸村・矢沢頼綱の真田一族といい、かくも城塞戦・ゲリラ戦の有能な将が多く輩出している。 おそらく険しい山野を知り抜いているからこそある土地勘が戦術に第六感を共鳴させ、そして一族:国人衆の結束が困難な作戦を可能にすることができるのでしょう。

昌幸は頼綱に勝利のたび恩賞を贈り、天正十三年の合戦では上杉景勝も頼綱に感状を送っている。 天正十七年(1589)、豊臣秀吉の命により、沼田城は真田の手から北条へと明渡すこととなる。
頼綱は昌幸より所領換えの通告を受け、沼田を去り信州吾妻郡岩櫃城へ入る。

 

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