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長谷堂城の戦い(出羽合戦)T〜時代背景〜


慶長年間当時、越後を治めていた上杉景勝(上杉謙信の甥〜養子となって家督を継ぐ)は慶長二年(1597)に豊臣政権で豊臣氏の五大老の一人に列せられ、慶長3年(1598)会津120万石に加増移封されます。 これは秀吉が巨大な勢力基盤を関東に持つ徳川家康の背後を牽制し、伊達政宗・最上義光などの外様大名を監視する奥羽鎮護を考慮しての配置でした。

(1)秀吉逝去
(2)会津越後での小競り合い〜小山軍議
(3)伊達政宗の動静と奥羽諸侯




 

●秀吉逝去


秀吉逝去の報に景勝は大坂に登ります。
翌年、景勝は会津に帰りますが 当時の上杉領内は地形が険阻で交通も不便であり、会津若松城も120万石の大名の居城としては小規模でありました。
そこで景勝は約十二万人の人夫を動員し領内の道路や橋の普請を行い、慶長五年(1600)二月から筆頭家老・米沢城城主:直江兼続に命じ、会津若松城の西南・神指原に約8万人の人夫を割り当てて新城の縄張りを行います。 六月には島倉孫左衛門が景勝の命をうけ ”神指城”の築城を開始し、領内の要所には支城・砦の建設も開始されています。
この景勝の領国経営は、”国内を要塞化し謀叛を企てるものである”として同年四月、時の五大老筆頭:徳川家康は景勝に申開きのための上洛を命じました。 家老:直江兼続は家康に返信の書状を作りますがこれが有名な【直江状】です。 道路・橋などの普請や新城の必要を説明しつつ、密告者を究明してその真偽を確かめるべきとつづりますが、その文面は家康への痛烈な皮肉と挑発に満ちていました。

六月、家康は上杉家の振る舞いを謀反として公表し、 五大老筆頭の名の下に上杉征伐を行います。 この機に呼応して石田三成は専横著しい徳川家康を除こうと豊臣恩顧の大名を集めて挙兵しました。
この一連の流れは三成と懇意の直江兼続がかねてより連携を取っていたとする説もあります。

かくして会津上杉は家康迎撃の備えを万端整えて、臨戦態勢に入っていました。

 

● 会津越後での小競り合い〜小山軍議

七月二五日、 家康は三成挙兵の報に接し、駐屯地:小山にて軍議を開きます。家康は会津上杉の討伐を中止し、軍勢の進路を大坂に向けることとします。

その折、下野国宇都宮の結城氏や奥羽の諸将に会津の牽制を命じます。 家康の命を受けた伊達政宗は会津国境に軍勢を進め上杉を牽制し、出羽合戦の前哨戦が開始されます。

上杉家:上泉主水主水佐泰綱※と伊達郡小手村内大館古城にて合戦を行います。 上泉泰綱は伊達勢の首一〇六を獲る戦果を上げ 会津に報告しています。


● 伊達政宗の動静と奥羽諸侯

”家康、西進す”の報は会津討伐に出陣していた奥羽諸侯の行動を鈍らせます。
特に上杉領の白石城を落としていた伊達政宗は、家康の作戦変更〜江戸での傍観を知ると上杉氏との積極的交戦を回避する行動にでます。

他の奥羽諸侯も伊達家のそれにならい兵を退きはじめます。この当時は全ての大名達が次の権力の推移に固唾を呑んで見守っていた時期であります。 奥羽の諸侯も家康対三成の情勢を傍観し旗色を伺っていたのです。
このあたりは政宗の”独眼竜”といわれるくわせものぶりが伺えます。

 
 

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