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大河ドラマ「風林火山」に迫る!

大河ドラマ風林火山の主役山本勘助、それを取り巻く武田信玄、上杉謙信など戦国を駆け抜けた英雄達を戦国魂の視点から迫ってみました。

Vol   1. 山本勘助について(武田側より)
Vol   2. 山本勘助について(上杉側よ り)
Vol   3. 花倉の乱
Vol   4. 晴信初陣、信虎追放
Vol   5. 真田幸隆の随身
Vol   6. 諏訪攻め
Vol   7. 上田原の戦い(vs村上義清)
Vol   8. 砥石崩れ(vs村上義清)
Vol   9. 上杉家軍師 宇佐美定満と定行
Vol 10. 川中島の戦い(第4次除く)
Vol 11. 第四次川中島の戦い(前編)
Vol 12. 第四次川中島の戦い(後編)
Vol 13. 武田家その後  (最終章遂に完結)




Vol.1 山本勘助について

 武田信玄の軍師的存在として知られ、永禄四年(1561)の川中島合戦で戦死したとされる山本勘助は、一般的には諱を晴幸といい、後に入道して道鬼と号したとされている。信玄の重臣で「武田四将」の一人に数えられる高坂昌信(あるいは小幡景憲)が著したという『甲陽軍鑑』では、勘助は剣術京流の遣い手で築城術にも優れた人物として描かれているが、昭和四十四年まではその実在すら疑われていたのが実際のところである。

  しかし同年、北海道釧路市の市川家に伝わる古文書(『市川(河)文書』)が世に出たことから、俄然事態は動いた。というのも文書中に「市川藤若宛武田晴信書状」があり、その中に

「注進状披見す。仍つて景虎、野沢の湯に至り陣を進め、その地へ取り懸かるべき模様、また武略に入り候と雖(いえど)も、同意無く、剰(あまつさ)え備(そなえ)堅固故、長尾功無くして飯山へ引退き候由、誠に心地よく候。何(いず)れ も今度、其の方の擬(はかり)頼母敷(たのもしき)迄に候。・・・(中略)・・・猶、山本管助口上有るべく候。恐々謹言。
六月廿三日   晴信(花押) 市河藤若殿」

 という文言が見い出されたのである。「山本管助」と字は違うが、これは特に気にする必要はない。当時の文書では、本人の書状でない限り漢字表記にはさほど頓着していなかったからである。
  「口上有るべく候」とある通り、勘助は市川藤若に晴信(信玄)の書状を届け、加えて補足あるいは晴信から藤若への言葉を伝える使者を務めたことがわかる。勘助が当時武田家でどのような地位にあったかは不明だが、この文書が後世に作られた偽書でない限り、少なくとも晴信から一定の信用を置かれていた人物であったことは確かであろう。

 今回の大河ドラマの原作は井上靖「風林火山」である。ただ、前作の司馬遼太郎「功名が辻」は文庫本では四巻完結であったのに対し、文庫本「風林火山」は一巻完結と短い。つまり、長丁場の大河ドラマではかなりの部分で原作を補う形のストーリーが組み込まれるものと予想されるが、ここは演出家の腕の見せ所であろう。
  放映される山本勘助の生涯は番組に譲るとして、『甲陽軍鑑』や地域伝承から勘助の人物像をざっと紹介すると、以下の通りである。

 勘助の生誕地は、主として駿河富士郡上山本(静岡県富士宮市)と、三河国八名郡賀茂(愛知県豊橋市)の二説がある。駿河説によると勘助は明応八年正月九日、富士郡上山本村の郷士・吉野図書(のち弾正)の四男として生まれたとする。幼名源助、諱は貞幸。幼少から軍学を学び、剣道・馬術・槍術その他諸芸に秀でたという。十二歳の時に三河牛窪の牧野右馬允(うまのじょう)の臣・大林勘左衛門の養子となり、名を勘助と改めた。故あって養家を離れ、三十余年にわたって諸国を遍歴した後に武田家に仕え、名を晴幸と改めたと伝える。
  三河説によると勘助は八名郡賀茂村の郷士・山本藤七郎光幸の三男として生まれたとする。幼名源助、十五歳となった正月十五日に同国牛窪城(愛知県豊川市)主牧野氏の家臣・大林勘左衛門貞次の養子となり、牛久保に移り住んで名を大林勘助貞幸と改めたという。二十歳の時に家郷を捨てて西国(山陽・山陰・四国・九州)へ武者修行の旅に出、三十五歳の冬十二月二十八日に一旦大林家に戻るが、すでに勘左衛門に実子が生まれていたため養父と縁を切って山本姓に復し、再び諸国(今度は関東方面)へ旅出ったと伝える。
  要は誕生地の違いこそあれ、三河牛窪城主牧野氏の臣・大林勘左衛門貞次の養子となった後に諸国遍歴の旅に出たとするところは、両説とも大体一致しているようである。

 また、勘助は三十六歳の時に母の従弟・庵原安房守を頼って駿河へ行き、今川氏に仕官を求めて九年間庵原家に居候するが、今川義元は勘助の容貌が醜かったことから採用せず、結局は庵原安房守の紹介状を持って甲斐へ行き、武田家に仕えたという。『甲陽軍鑑』ではこの時期を天文十二年(1543)三月と伝え、板垣信方の推挙により武田晴信(信玄)に仕えるのだが、原作はこのあたりから筆を起こしている。
  勘助の容貌は怪異と言って良い。『甲陽軍鑑』では「小男で一眼、指も足も不自由、しかし大剛の者」と紹介するのだが、放映ではどのようにメイクされて登場するのかが注目される。また、信玄に謀殺された諏訪頼重の娘で、絶世の美女だったと伝えられ後に信玄の側室となった湖衣姫(諏訪御前、勝頼の母)との交流も見所の一つであろう。

  勘助は永禄四年(1561)に起こった上杉謙信との川中島の戦い(第四次)で戦死するのだが、戦いの際に自ら考案した「啄木鳥(きつつき)の戦法」を信玄に献策したと伝えられる。ちなみにこの戦法は、啄木鳥がエサを捕る際、木の反対側をつついて虫をびっくりさせて穴から這い出させ、出てきたところを捕らえるという習性にヒントを得たものという。つまり、機動力のある精鋭部隊を敵陣の中核や留守城などに迂回して進軍させておき、敵がそれに気を取られている隙に本軍で一気に攻略するというものである。

  しかし謙信は勘助の戦術を見破った。その裏をかき一気に押し寄せて開戦したため、兵数の少なくなった武田勢は大苦戦となる。信玄の弟信繁が戦死、信玄・義信父子も負傷するほどであったが、やがて別働隊が謙信の背後に回ると戦況は一変、逆に今度は謙信軍が苦戦を強いられ、結局は痛み分けという結果になった。
  勘助は戦術を謙信に見破られたことが口惜しかったらしく、責任を取るような形で敵陣に突撃、戦死したという。享年六十九歳(異説あり)、法名は「鉄巌道一禅定門」または「天徳院武山道鬼居士」。長野市松代町の千曲川沿い、愛知県豊川市の長谷寺、山梨県韮崎市の宗泉院、静岡県富士市の医王寺などに勘助の墓と伝えられるものがある。                                        

by Masa



 
 

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