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「功名が辻」を追う!インデックス

戦国魂の「功名が辻コンテンツ」は戦国浪漫主宰の「Masa氏」が多くの資料と実地検分に基づき書き下ろしたもの。
さらに、真壁太陽氏のとってもかわいい?「一豊と千代」もお目見えです!

Vol13. 土佐入国、一国一城の夢叶う最終章
Vol12. 会津征伐と直江状、細川忠興の妻・ガラシャ(玉)、小山評定、そして関ヶ原!
Vol11. 小田原攻め、秀吉の死、天下の行方
Vol10. 賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、天下平定戦へ
Vol 9. 山崎の戦い、光秀の最期、清洲会議、吉兵衛の死
Vol 8. 鳥取城攻め、高松城水攻め、本能寺の変〜中国大返し
Vol 7. 三木城落城、十両の馬と賢妻千代
Vol 6. 謀反・裏切り・討死 武将たちの生き様
Vol 5. 小谷落城、長政の最期。 長篠の戦い、忍の世界へご案内
Vol 4. 織田、徳川最大の危機。武田信玄上洛!山が動いた
Vol 3. 激戦!姉川の戦いに迫る! / 比叡山攻めの真相とは?
Vol 2. 大河で活躍する今孔明・竹中半兵衛(前期)/功名が辻紀行「半兵衛の菩提寺を訪れよう」(2006/2/28)
Vol 1. 山内一豊と千代出生に迫る。/功名が辻紀行「長浜城」(2006/1/31)


(1)山内一豊と千代出生に迫る。
(2)功名が辻紀行「長浜城」(一豊、城主となる)



Vol.1 山内一豊と千代の出生に迫る!(by Masa)

「画:真壁太陽」


  後に土佐一国の主となった山内一豊は天文十五年(1546)、岩倉織田氏の家老・山内但馬守盛豊の二男として尾張羽(葉)栗郡黒田郷(愛知県一宮市)に誕生、幼名を辰之助といった。なお、一豊の誕生年を天文十四年、誕生地を岩倉城(同岩倉市)とする説もある。

  父盛豊は久豊の子で通称を猪之助といい、美濃に生まれた。若い頃より久豊とともに尾張守護代岩倉織田家(敏信・信安・信賢)に仕え 、やがて黒田城を預かる重臣となった人物である。母は松千代といい、尾張春日井郡羽黒城(同犬山市)主・梶原源左衛門の娘と伝わっている。夫盛豊の没後は出家して法秀院(尼)と号した。

  一豊の糟糠の妻として知られる千代の出自は不明である。名も
「千代」「まつ」の二説があり、また初め「まつ」を名乗り、一豊との結婚を機に「千代」と改めたともいう。司馬遼太郎氏の「功名が辻」では近江浅井氏の家臣で坂田郡新庄村の郷士・若宮喜助友興の娘としているが、美濃斎藤氏麾下の郡上八幡城(岐阜県郡上市)主・遠藤盛数の娘(遠藤慶隆の妹)とも言われており、現時点では判然としていないが、郡上出自説の方が説得力があるような感を受ける。


山内一豊公生誕地の碑
(愛知県一宮市・法蓮寺)


 岩倉織田氏は斎藤義龍や織田信行と結び、織田信長とは対立する立場にあった。
 弘治三年(1557)七月のこと、黒田城が夜討ちに遭い、この時の戦いで兄十郎が討死し、父盛豊が負傷したとされるが、十郎は城内で暴漢に襲われて落命したともいう。幸いにも辰之助は家臣に守られて無事であった。

 岩倉織田氏は内紛を抱えていた。
 当主の信安は二男の信家に家督を譲ろうと考えたため長男の信賢と対立、機先を制した信賢に追い出されてしまったのである。信長はこの機を逃さず、永禄元年(1558)七月十二日に尾張浮野(同一宮市)において信賢勢を激戦の末に破り千二百を超す首級を得た。翌年正月、信長は弱体化した信賢を岩倉城に攻め、足かけ三ヶ月に及ぶ攻城戦の末に落とし信賢は美濃へと逃れた。
 


弘治三年七月十二日
と刻まれた盛豊の命日


父・盛豊(右)と
兄・十郎(左)の墓(同)


 ここに信長は尾張をほぼ統一することになるが、辰之助の父盛豊は主家滅亡に際し家老としての責任を取って自害したという。

 しかし没年を弘治三年七月十二日、すなわち兄十郎と同日とするものもあり、よくわかっていない。ちなみに盛豊と十郎の墓はともに一宮市の法蓮寺にあるが、命日は七月十二日となっている。(写真左)
 墓石に刻まれた法名は盛豊「法性院殿逸溪光秀大居士」、十郎「勝曼院一方乗廣居士」。(写真右)

 岩倉城の落城により辰之助は浪人を余儀なくされることになった。母や幼い弟妹を連れ、まずは追手を逃れるため苅安賀(一宮市)の浅井政高を頼った。政高は盛豊の従弟にあたり、親身になって辰之助一家の世話をしてくれたが、数ヶ月後
には近江坂田郡宇賀野(滋賀県米原市)の長野業秀のもとに移る。
ここで辰之助は元服、
山内伊(猪)右衛門一豊と名乗った。



 一説に永禄三年、十五歳になった一豊は斎藤龍興の家臣で美濃牧村城(岐阜県安八町)主・牧村政倫(まさとも)の紹介で近江勢多城(大津市)主・山岡景隆に謁見が叶い、二百石で召し抱えられたという。余談だが、政倫の養嗣子・兵部大輔利貞(政吉)は茶人として高名で、「利休七哲」の一人として知られている。

  当時山岡氏は六角氏の麾下にあり、「江南の旗頭」と称され栗太郡・志賀郡に勢力を伸ばしていた国人で、当初景隆は反信長の立場にあった。この間、同八年五月には室町幕府十三代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀らに暗殺されるなど、京都の政情は混乱していた。
  しかし同十一年九月、信長は義輝の弟で越前朝倉氏のもとに身を寄せていた義昭を擁して上洛、協力要請を無視した六角承禎(義賢)父子を観音寺城(滋賀県安土町)に攻め破り、ここに近江の雄六角氏は滅亡、山岡景隆も信長に降伏することになる。

  一豊はこの前後に信長の馬廻りとして仕えたようだが、その日時は不明である。信長は稲葉山城を同十年八月に攻め落としており、この説を信じると一豊は稲葉山城攻めには加わっていないことになる。別説では牧村政倫の推挙で信長に仕えたともいい、このあたりの一豊の足跡はよくわかっていない。

次号につづく



 
 

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