岩倉織田氏は斎藤義龍や織田信行と結び、織田信長とは対立する立場にあった。
弘治三年(1557)七月のこと、黒田城が夜討ちに遭い、この時の戦いで兄十郎が討死し、父盛豊が負傷したとされるが、十郎は城内で暴漢に襲われて落命したともいう。幸いにも辰之助は家臣に守られて無事であった。
岩倉織田氏は内紛を抱えていた。
当主の信安は二男の信家に家督を譲ろうと考えたため長男の信賢と対立、機先を制した信賢に追い出されてしまったのである。信長はこの機を逃さず、永禄元年(1558)七月十二日に尾張浮野(同一宮市)において信賢勢を激戦の末に破り千二百を超す首級を得た。翌年正月、信長は弱体化した信賢を岩倉城に攻め、足かけ三ヶ月に及ぶ攻城戦の末に落とし信賢は美濃へと逃れた。
弘治三年七月十二日
と刻まれた盛豊の命日
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父・盛豊(右)と
兄・十郎(左)の墓(同) |
ここに信長は尾張をほぼ統一することになるが、辰之助の父盛豊は主家滅亡に際し家老としての責任を取って自害したという。
しかし没年を弘治三年七月十二日、すなわち兄十郎と同日とするものもあり、よくわかっていない。ちなみに盛豊と十郎の墓はともに一宮市の法蓮寺にあるが、命日は七月十二日となっている。(写真左)
墓石に刻まれた法名は盛豊「法性院殿逸溪光秀大居士」、十郎「勝曼院一方乗廣居士」。(写真右) |
岩倉城の落城により辰之助は浪人を余儀なくされることになった。母や幼い弟妹を連れ、まずは追手を逃れるため苅安賀(一宮市)の浅井政高を頼った。政高は盛豊の従弟にあたり、親身になって辰之助一家の世話をしてくれたが、数ヶ月後
には近江坂田郡宇賀野(滋賀県米原市)の長野業秀のもとに移る。
ここで辰之助は元服、山内伊(猪)右衛門一豊と名乗った。
一説に永禄三年、十五歳になった一豊は斎藤龍興の家臣で美濃牧村城(岐阜県安八町)主・牧村政倫(まさとも)の紹介で近江勢多城(大津市)主・山岡景隆に謁見が叶い、二百石で召し抱えられたという。余談だが、政倫の養嗣子・兵部大輔利貞(政吉)は茶人として高名で、「利休七哲」の一人として知られている。
当時山岡氏は六角氏の麾下にあり、「江南の旗頭」と称され栗太郡・志賀郡に勢力を伸ばしていた国人で、当初景隆は反信長の立場にあった。この間、同八年五月には室町幕府十三代将軍・足利義輝が三好三人衆や松永久秀らに暗殺されるなど、京都の政情は混乱していた。
しかし同十一年九月、信長は義輝の弟で越前朝倉氏のもとに身を寄せていた義昭を擁して上洛、協力要請を無視した六角承禎(義賢)父子を観音寺城(滋賀県安土町)に攻め破り、ここに近江の雄六角氏は滅亡、山岡景隆も信長に降伏することになる。
一豊はこの前後に信長の馬廻りとして仕えたようだが、その日時は不明である。信長は稲葉山城を同十年八月に攻め落としており、この説を信じると一豊は稲葉山城攻めには加わっていないことになる。別説では牧村政倫の推挙で信長に仕えたともいい、このあたりの一豊の足跡はよくわかっていない。
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