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Vol.2 第一次上田合戦(神川合戦)


籠城戦において、寡兵を以って敵を篭絡する。真田昌幸の籠城戦。

(1)籠城の背景と真田家の立場
(2)昌幸、上田城に籠城す
(3)神算鬼謀:真田昌幸
(4)神川の合戦の後




 

●籠城の背景と真田家の立場

 上州真田家は天正十年(1582)武田家滅亡後、家名存続のために 織田信長〜北条氏直と主を変えて後、徳川家康に仕えていました。 同六月、信長が本能寺に斃れ、信濃は上杉・北条・徳川が三つ巴で争う場となります。 真田家当主: 安房守昌幸は北条家に臣従します。 やがて北条家との関係は立ち行かず、甲斐・南信濃での徳川家康の経略が優れていたので、昌幸は同十月、大久保忠世・依田信蕃(※)を仲介に徳川家に臣従します。

徳川家康は本能寺の変後、勢力拡大と三方ヶ原合戦で失った多くの家臣の穴を埋めるために武田旧家臣団の吸収に努めていました。 故に北信濃の要衝を押さえる真田家に好意的だったのです。

昌幸は織田信長の信濃仕置き以来、本領である小県を支配の中心として上田城築城を家康に打診します。当時、家康は上杉景勝の北信濃侵攻を阻止するため甲府まで出陣していました。昌幸の上田城築城の申し出は家康にとって信濃防衛に好都合であり、周辺城主達にも築城を援助するよう取り計らいます。


しかし天正十二年(1584)、 家康は織田家の後継者問題で秀吉と対立し、小牧長久手の合戦にいたります。 この際、家康は後方の敵:北条家と和を結び秀吉との徹底抗戦に備えます。 家康は北条家に和の代償として、当主:昌幸に無断で真田家の沼田城を北条家に割譲する約を結んでしまいます。

昌幸はこの家康の処遇に激怒し、今度は上杉家海津城代:須田満親を介して信濃国境で対立していた上杉景勝に次男:弁丸(後の信繁=幸村)を人質として差しだし和を乞います。景勝はちょうど川中島周辺を固めていたところなので昌幸の行動には疑念を持ちつつも北信濃の磐石を見越して臣従を認め援助を約束します。

 

●昌幸、上田城に籠城す

かくして天正十三年(1585)八月二日、 籠城史に名高い、第一次上田合戦(神川合戦)が開始されます。 家康は秀吉と小牧長久手の合戦後に講和を終えると、 地方小大名:真田家の離反・独立によって傷つけられた威信を回復するために、鳥居元忠を総大将として平岩親吉、大久保忠世らにおよそ7000〜1万の兵を率いさせ 真田領に侵攻させます。

昌幸は是を受けて築城の途中である上田城での籠城を敢行。 徳川軍は上田城東方の国分寺方面に押し寄せました。 主将:昌幸は自ら率いる4〜500余を上田城本丸に、
・城の横曲輪(よこぐるわ)を初め諸所にも兵を配置、
・城の東南の神川(かんがわ)に200の前衛部隊、
・伊勢山(戸石城)には嫡男:信之の800余、
 籠城方総勢2000余りを配置します。

・上田城下には千鳥掛け(互い違い)に結いあげた柵を設け、
・複雑な並びの町家・山野に約3000の武装農民を配し、
 紙幟(かみのぼり)を差し連ねさせ伏兵としました。


『武家事記』によれば上田城は南を千曲川(ちくまかわ)、西・北は千曲川の支流:矢出沢川を控え土塁中心の石垣の無い、簡素な平城だったと伝えられています。 小田原城は100を超える支城・砦があり、既におびただしい武器・兵糧・弾薬・衣服が集積されていました。

 
● 神算鬼謀:真田昌幸

徳川勢の先手が城の東南の神川(かんがわ)に差し掛かると200の真田前衛部隊はこれを迎え撃ち、槍を数回あわせると後退し始めます。
昌幸自身は城門を閉ざし、櫓の上で甲冑もまとわずに城下の戦況を尻目に家臣と碁を打っていました。真田勢が小勢で抵抗も無いので、徳川勢は一気に城を落とそうと城内になだれ込みます。 城外にいた200の前衛部隊は押し捲られて、横曲輪(よこぐるわ)に後退・集結します。

なおも昌幸は三国志の諸葛亮が街亭の敗戦で司馬仲達を退けた、『空城計』のように碁を打ち、ついには若侍に手鼓で調子を打たせ名高い『高砂の謡』をうたって徳川勢を挑発します。

ここで鳥居元忠が司馬仲達のように退けば戦いは長引いたことでしょうが、あまりに城内に易々と入れたため、勇猛な三河兵は勢いとともに鬨の声を上げて大手門も突破しようとします。 このとき、昌幸は城門上に隠した丸太を落とさせ、徳川勢に弓・鉄砲を撃ち掛けました。さらに城内の500の兵と横曲輪(よこぐるわ)に集結した兵を押し出させ、 上田城の町家には折からの強風に乗せて火を放ちました。
山野に伏兵していた武装農民はこの火を合図にいっせいに陣太鼓を鳴らして徳川勢に打ちかかり、真田信之の指揮する800は戸石城より討って出て徳川勢の退路を遮断します。
徳川勢の先手は状況が急転し四方に敵を受け指揮系統が乱れますが、手柄を目指して猛進する後続の兵士達は急に止まれず籠城方の挟撃を受けました。 しかも設置してあった千鳥掛けの柵に引っかかり、複雑な町家に退路を見失い、徳川勢は大混乱に陥ります。
城壁にたどり着いた徳川兵士達も鉄砲隊に次々と撃ち落とされます。 甚大な被害を受けて北国街道に撤退する徳川勢は、戸石城から討って出ていた真田信之の突撃を腹背に受けて陣は崩され、 四散した兵は神川で溺死するという被害も出しました。

真田信之書状によると、この戦いでのによると徳川方の死者は1300余、大久保忠教によれば300名余とされています。
一方の真田方の死者は40余とされています。

大久保彦左衛門の『三河物語』では徳川勢を指して

〜ことごとく腰がぬけはて、震えて返事も出来ず、下戸に酒を強いたるが如し〜

と評している。徳川の旗本が敗北を認めたということになります。  

 
●神川の合戦の後

戦果の無い徳川勢は東に位置する北佐久郡:丸子城を落とそうと矛先を変えますが、城将:丸子三左衛門は良く是を防ぎました。 徳川家康は井伊直政を後詰として派遣し、真田昌幸が送った増援(上田寄り・丸子城の西に位置する尾野山城に派遣)にあてがいます。しかし九月下旬、徳川勢はやむなく撤退します。

家康と秀吉が和睦して秀吉が関白になると、今度は昌幸が秀吉に臣従し、上杉景勝が上洛した隙に次男:弁丸(後の信繁=幸村)を春日山から脱出させ、秀吉元に近侍として差し出しました。 これを聞いた景勝は烈火のごとく怒りますが、関白預かりとなった真田家にはもはや手出しをすることは出来ませんでした。

この戦いで真田の家名は天下に轟き、徳川家康と真田昌幸の関係は悪化、後の第二次上田合戦へと繋がります。

 

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