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大河ドラマ「風林火山」に迫る!

 前回、山本勘助がその地位や活躍が伝えられる通りのものかどうかは別として、確かに実在していた人物であること、またその人物像が武田方の資料『甲陽軍鑑』では「小男で一眼、指も足も不自由、しかし大剛の者」と紹介されていること等を書いた。そこで今回は趣向を変えて、武田氏の最大のライバル・上杉氏側の資料で勘助がどのように伝えられているか、比較的まとまった記述の見える『
北越軍談』を採り上げるが、原文には時折難解な文言が含まれているため、大意を現代語訳してご紹介したい。(一部省略した部分があることをあらかじめお断りしておきます)

■大河ドラマ「風林火山」に迫る!コラム一覧




Vol.2 山本勘助について(その2)上杉側より

 勘助晴幸は背が低いうえに色が黒く、片目片足が不自由であるが、築城法から国政に至るまで雄弁錬磨の人物である。(原文:勘助晴幸は背矮ふして色黒く、関鴻にして越跛なるが、築城営法天官までも頤を探て錬磨の士たり)

  父は東三河牛窪の領主牧野新三郎成定の家臣で勘右衛門某(または半九郎とも)という。勘助は若い頃から武道に対する志が厚く、京都将軍家以来関西に流布する中条流の剣術を修め、刺撃術の達人であった。しかし「一剣の術は一人の敵に対するのみで万夫の雄は為しがたく、主将たる者の用には足らない」と語り、楚(古代中国)の項羽の行いに思いをはせつつ、伯父の山本帯刀左衛門成氏に従って日夜士法を学び、同国寺部の鈴木日向守重辰に懇望して兵法を次第に修め、管領上杉家に仕えて小禄を与えられていた。

  中年に達した頃に上杉家を致仕して遊客となり、関八州・奥羽を始め畿内・中国などにまで武者修行の旅を続け、本国三河加茂郡に帰ると今川家の宿老庵原安房守忠胤を頼って今川義元の直参となることを希望するが、もともと陪臣の身であり、加えて五体不満足であることを卑しめられて望みは達せられなかった。こうして空しく日々を過ごしていたところ、板垣駿河守信形の推挙により武田晴信は勘助を天文五年以前に甲府に招き、弓矢の師範として数貫文の知行を与えて軽卒の隊長とした。その翌年の信州戸倉合戦の際、敗色の濃い甲州勢を冴えた軍配で立て直し、窮地を救ったたことが近国にも聞こえ、武田氏麾下の人々は勘助を「軍神の変化(へんげ)」だと称したという。
  勘助の軍術は、かつて日向の伊東左衛門尉祐持が楠木正成から伝授され子孫に伝えていたものを、彼が武者修行中に鎮西へ下向した際に伊東大膳大夫義祐より伝授され、これより軍道に徹したという。また築城法については関東において太田金吾入道道灌の流儀を学び、ざっと会得した後に甲府にて晴信の家臣・原大隅守虎吉や天狗山伏からも教えを受け、縄張りの大綱を習得した。晩年にはその要点を馬場美濃守信房に相伝したという。 (『北越軍談』 巻第九より)

 『北越軍談』は元禄十一年(1698)成立の軍記物で、事実と異なる内容も多く含まれており、史書というより伝承の集大成として捉えた方が良い。勘助の武田氏仕官についても『軍鑑』とは年次が異なっており、伊東義祐から軍術を伝授されたなどとは当然信じがたいが、勘助という人物が越後上杉家においても「武田の軍師」的な色合いで捉えられていたことだけは、他の記述からもよくわかる。

  現在大河ドラマ「風林火山」は原作にはないストーリーで展開中だが、明らかな創作部分は別として、概ね『甲陽軍鑑』の記述を参考に構成されているようである。天文年間初期、武田信虎は今川氏や相模の北条氏と交戦中で、同五年(1536)六月十日には駿河今川家の有名な内紛「花倉の乱」が勃発するのだが、それについては次回にご紹介したい。

by Masa



 
 

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