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大河ドラマ「風林火山」に迫る!

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Vol.9 上杉家軍師 宇佐美定満と定行

  さて、放送では上杉家においても勘助と同様に軍師として設定されている人物がいる。緒方拳氏の扮する宇佐美駿河守定満である。定満は越後琵琶島城(新潟県柏崎市)主で上杉家(長尾家)の大身とされ、永禄七年(1564)七月五日に長尾政景(上杉景勝の実父)と信濃野尻湖で舟遊び中に不慮の事故が起き、政景とともに水死したと伝えられる人物だが、その素顔は謎に包まれていてよくわからない。

  通常、上杉家に限らず当時の人物の活躍や人となりをざっと知るには、信憑性はさておき「軍記物」と呼ばれる書物の記述が情報源となることが多い。ところが、上杉家の軍記物である『北越軍記』『北越耆談』『上杉三代日記(上杉軍記)』『川中島五箇度合戦之次第』『松隣夜話』などには定満の名は見えず、代わりに上杉謙信の参謀として活躍しているのが宇佐美駿河守定行である。定行は上杉家公式の武将列伝とも言える『上杉将士書上』にも結構なスペースを割いて登場していて、その記述内容は定満の生涯と同じものなのであるが、実は定行は架空の人物とされている。

  ではなぜこのようなことが起きたのか。上記『北越軍記』の著者は紀州藩士の越後流軍学者・宇佐美定祐なる人物で、定満の孫(あるいは曾孫)だというが確証はなく、自称していたのかもしれない。さらに踏み込めば、紀州藩主からそう名乗れと命ぜられた可能性もある。つまり、越後流軍学の権威付けや自らの箔付け(紀州藩の意向かもしれないが)のために、実在する祖父(曾祖父)定満をモデルとして定行なる架空の人物を創作した、というのが一般的な説である。そして、その根底に流れるのが、江戸初期以来広く読まれていた『甲陽軍鑑』への対抗意識であり、謙信の下で大活躍する定行の人物像は、正に『甲陽軍鑑』で活躍する武田家の山本勘助と肩を並べるライバルとして作り出したものではないかと思える。

 従って『北越軍記』を始め、その影響を受けて後に成立した軍記物などには多々史実と異なる記述があるのは事実だが、こういう書を通じて定行(定満)の人物像が当時世に広く伝わっていたのもまた事実である。そういう意味において、以下に『上杉将士書上』に見える定行(定満)の事績をざっと意訳してご紹介したい。

 宇佐美駿河守藤原定行は上杉家中で別格の老功古実の侍で軍功も多く、生涯数十度の手柄を立てて上杉顕定・定実・謙信から多くの感状を与えられた。永正六年に長尾為景が謀反を起こして主君上杉顕定と弟の房能を討ち滅ぼし越後を押領した際、定行は二十一歳であった。
  定行はまだ若輩ながら主君の仇を討とうとして、大永元年まで為景と戦う。柏崎より沖野まで片浜十五里を切り従えて為景に対抗したが、やがて関東管領上杉憲房・越後屋形上杉定実の仲介で和睦した。
  天文七年四月、為景が越中へ攻め込んだ際、定行は手勢を率いて松倉城に夜襲を掛け、城主山下左馬助始め四百余騎を討ち取って城を奪った。為景は放生津(ほうじょうづ)城を攻め落とすが、畠山稙長方の神保・椎名・遊佐・江波ら五千の軍と仙壇野(せんだんの)にて戦って討ち死にしてしまう。越後勢が総敗軍となった時、定行は松倉城から出陣して敵を追い払い、越後衆を悉く引き取らせた。後に自身は再び松倉城に籠もり、負傷者や身分の低い者に至るまで、遅れた者を尋ね出して越後に引き揚げさせたが、この手柄は北国・関東に広く知れ渡った。

  その後為景の寵臣黒田和泉守・金津伊豆が謀反を起こして越後の国が乱れ、長尾晴景と弟の謙信が対立した。謙信は当時十八歳で、十三歳より本庄美作守慶秀の庇護を受けて栃尾城にいたが、慶秀の誘いを受けて定行は謙信に従い、軍法を指南した。やがて謙信は越後一国の主となるが、定行の忠功は本庄慶秀と並んで非常に大きなものである。
  定行の先祖である宇佐美三郎祐義は、抜群の軍忠により右大将頼朝公より伊豆の本領宇佐美・須見・河津他数箇所の庄園地頭職を賜り、以後代々公方家直参として定行の祖父・宇佐美能登入道道盛まで十六代にわたって領知した。道盛の嫡子・越中守孝忠の代に越後琵琶島城へ移り上杉家に従い、家中で最も大身であった。この越中守孝忠の子が定行である。
(一部略)
  駿河守定行は永禄七年七月五日、信州野尻の池にて長尾越前守政景とともに生害した。これには子細があって宇佐美家は断絶、嫡子で十五歳になる民部は浪人した。
  駿河守は一代の軍功が甚だ多い。十九歳より精進持斎して女犯(にょぼん)を断ち、五十七歳までずっと続けていたが、古来からの名字が途絶えるのを惜しんだ謙信の意見で五十七歳にして妾(めかけ)を置くことになり、翌年には左太郎定勝という嫡男が生まれ、その後次男民部も誕生した。その時妾を宇野与四郎の妻として与えると六十二歳より再び精進持斎、七十六歳にて生涯を閉じた。(以下略)
  精進持斎の「持斎」とは斎(とき=食事)を持つ、すなわち自分の食事を削ってでも他の人に施すという意味で、定行は上杉家中の高潔な武将として捉えられているようである。

 武田に勘助あれば上杉にも宇佐美あり。ここは無粋な史実の詮索は抜きにして、二人の能力比べに興じてみても面白いのでは無かろうか。それもまた、一面の歴史の楽しみ方である。

by Masa



 
 

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