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大河ドラマ「風林火山」に迫る!

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Vol.11 第四次川中島の戦い(前編)

  さて、戦国屈指の激戦となった永禄四年の「第四次川中島の戦い」にて主人公山本勘助は戦死し、この物語は終わる。
  今回は合戦の内容を詳細に記した『川中島合戦伝記』(甲州流伝書)より、その内容を原文のままご紹介したい。ちなみに、この書物は武田方の記録『甲陽軍鑑』の比較的簡潔な記載に補足として伝解を加えたもので、史実としての信憑性は残念ながら低いが、戦いの内容が細かく読み取れるため、後の軍談・講談や小説などの原典として活用したものも多いのではないかと思われる。
  なお、以下は『小林計一郎校注 真田資料集』(新人物往来社刊)より引用し、読みやすくするため一部にルビや補足・注釈を加え、また一部に表記を改めた部分があることをあらかじめお断りしておく。

 永禄四年辛酉八月十六日、信州川中島より早打を以つて申し上ぐるは、「輝虎出陣して海津の向ひ妻女山に陣取りて侯。海津の城を是非攻め落し申すべき風聞に侯。其の勢一万三千斗りなり」と申し上ぐる事伝に曰ふ。輝虎は上杉殿平井へ帰住の儀、信州の通路不自由成るに依って、調(ととの)ひ難し。今度は信玄と有無の一戦を遂げ、関東の道を開きなん物をとつぶやきて、(一)万三千斗りの兵を卒して出で給ふ。其の触の趣には一、軍兵七千五百斗(ばか)り、此の外は人足也。但し善光寺迄は道中に人夫を以て荷物を送るべし。然して荷物大略は善光寺に残し置き、川中島へは要用の物斗り持参すべし。

一、善光寺迄は荷馬少々これある共、才(犀)川を渡りては、悉(ことごと)く歩荷(かちに)たるべし。
一、兵粮、善光寺に集め置きて、一左右次第、彼の地に送るべし。
一、近国降参の大名并びに遠境の諸将は、道の遠近によつて定め難ければ、各、手寄次第春日山へ来り集 るべし。彼の地後詰の事は一左右次第法の如くに罷り出づべき也。付。軍彼是の諸色、自分の賄を売るべからず。城代北条丹後相斗(はから)ふべき旨、申し付くる所なり。

 斯くて八月十四日に春日山を立ちて十五日(川)中嶋に着くと等しく、近郷の粮(食糧のこと)を掠領し、雨宮より筑麻川を渡り、海津の向、妻女山に(其の間十丁に過ぎず)陣をなして、山家の小家少々放火せしに、高坂弾正も兵を出し、海津の町を地焼きし、恐る々色なく下知せしと也。此の事、甲府へ急を告ぐる事しばしば也。

 長尾が謀は十二年の間[川]中島へ出でしに、信玄が後攻めに左右より妨げられて師(いくさ)を班(かえ)しぬ。此の度は海津より奥へ入って、信玄出でなば、海津と信玄と先づ一方に受けて相支へて戦はんに、越後より後攻め押来て、善光寺を先陣として才川を前に当てて入替へて戦はしめんに、信玄終に敗亡せん。信玄是を悟(さと)りて出張せずんば、妻女山に兵を残し、半ばを出して海津を攻めんに、落さん事たやすかるべしとの取沙汰頻(しき)り也。

 信玄、同十八日甲府を御立ち、同廿四日中島に着陣。長尾が陣妻女山のこなた雨宮の渡りを切られ、陣取り給ふ事伝に曰ふ。信玄一万斗りの兵を将(ひき)いて甲府を出給ふ。兼ねての法の如く、道すがら軍勢相加はる。信州衆七千余騎、中島着陣には都合一万七千余騎とぞ聞こへし。此の外海津の城に三千五百余騎、常には三日に来り給ふ中島へ、此度は七日に押し給ふ事、様々の思慮有り、一つには此の度長尾が深入りは、味方に内応の者有りげに疑はしめんの謀有るべし。然らば其疑ふ体にもてなし、敵の位をみるべし。二には海津と某(それがし)と一方に受けて、山陣にて相支へて越後より後攻めを以つて、前後を遮(さえぎ)らんとの謀有るべし。然らば途中にためらひて越後の後攻めの有無を知るべし。三には、某出でずば、元来海津を攻めんと思はん、然らば途中に逗留を聞きて、其の際にとて海津を攻めば、急にかけ付け、後攻めして破らん。さあらば、越の後攻め来りて救ふべき様なし。是、途中にためらふ益有り。(略)

 謙信衆は越後への通路を留られ、袋へ入りたるが如くと愁ふれ共、諌言は事共せずして日数を送らるゝと。
  伝に曰ふ。長尾の老臣評議しけるは、越よりの後攻め早々申し遣し度(た)き事也。其の故は、一にはこなたより出でて戦はんには、地形を離るゝのみに非ず、敵の大勢備を設く。二には今の分にて徒(いたずら)に対陣せば、軍勢日来(ひごろ)の如く乱取りもせずして押し籠められて気を屈せん。越の兵来らば、敵定めて半ばを分けて越軍に向ひて、半ばは君と戦はん。然らば一方打破って御帰陣いと易がるべしと云ふ。
  謙信定めけるは、第一、敵今張陣して、其の機、尤(もっと)も新た也。悉く兵を用ふる者は其の鋭気を避けて其の堕気を撃つと云へり。今の分にて敵として河原に日数をさらさば、彼が謀(はかりごと)の色、日に随(したが)つて顕はるべし。これ一。又敵この山陣には来るべからず、若し来り攻めば、最前の巧みの如く、鳥雲山陣にて戦ふべし。これ二。又、軍兵の粮だにあらば、放火・乱取は暫く相止め、潜(ひそか)に成りて敵の機を見るべし。扨、越兵を今呼びたらんは敵の謀の前也。(中略)此の故に、我、諷詠、なをざりに、日を送る処也。相構へて、各(おのおの)、能(よ)き兵機を養ひて、越の顧みをする事なかれとて、例の一重切の尺八を取出し、打ちうそぶひてぞ暮らされける。

 信玄は五日御馬を立てられ、六日目廿九日に引払ひて、広瀬の渡りをして、海津の城へ入り給ふ。
  伝に云ふ。甲州の臣等評議しけるは、是迄出でながら、徒(いたずら)に守り居ては、敵を恐るゝ費(ついえ)に落ちなん。唯、中島に軍兵を残し給ひ、君は才川を渡って越後路へ押し入り、放火等し給はんに、越卒出でなば、追ひちらすべし。出でずば深く入り給はんに、謙信忿(いか)って中島へ出でて一軍(ひといくさ) して帰らんとすべし。其の時、海津と中島の越卒とを以つて相支へん間に、君神速に取って帰し戦ひ給はゞ、一定(いちじょう=きっと)御勝ちたるべしと云々。

 信玄宣(のたま)ひけるは、いやゝゝ越卒は急に軍を合はすべからず。某、越の地へ入らんに、敵数万なれば、山々に陣を設け、一所には集まらずして爰(ここ)かしこにて守らんには、攻むるに日数を経べし。長尾は、某を越後へ深く入れて、妻女山に兵を残し、甲州へはさみ入りなば、某が兵は出陣に尽しぬ。長尾に対する将はなし。甲州甚だ危ふかりなん。(略)
  扨(さて)、信玄は備(そなえ)をくりおろし、広瀬迄さがりて、海津の搦手(からめて)より入り給ふ。是は敵唯今にも出でなば戦はんと道をあたへて招く様にみせて用心の心得せしとかや。

 謙信はいつもの如く妻女山に居給ふ。
  伝に云ふ。謙信の老中は、君の宣ひし事共掌を指すが如しと感じあへりけるに、謙信宣ひけるは、信玄殿は某が謀を察したるとみへたり。此の上は暫く越卒をも招くべからず、又徒に軍をも班(かへ)すべからず。某に任せよとて、毎日兵を出し、近郷を乱暴し、更に恐るゝ色なく、思ひのまゝに振廻ひ給ふ。海津の宿へも忍を入れて焼かんとする事度々也。(略)

 小幡山城(=小幡山城守虎盛)は此の六月病死。原美濃は割ケ獄にて手負し故、御供せず。勘介入道御談にて申上げし趣の事。

  伝に云ふ。勘介申しけるは、一万二千は彼の山へかゝり、備を跡へとりつゞけ、海津迄十丁の間に段々に立つべし。君は八千にて広瀬を渡り、中島へ御出張、越後の通路を遠く御開き、御備えあるべきと理(ことわ)り。
  一、敵、是をみば、戦ふか班師(はんし=軍を引き返すこと)か二つなるべし。
彼の山に戦はゞ幾度も味方の軍とかけ合ひなん。然らば先づ山を引き出すのみに非ず。たとへかれ戦に利を得る共、残らず備をば乱しなん。君其の時新しく筑麻(千曲川)を渡って押し寄せ給はゞ御勝利ならん。(略)

 長尾は、当時の陣気をみて、明日合戦たるべし。武田兵を二つに分け、一つは此の陣へ寄せ、某、川を渡らば、半分の勢を以つて、中島にて戦はんとの師立(いくさだて)、鏡に移らふ如くみへたり。爰(ここ)は某も重手をすべし。今夜中に川を越え、武田が先陣駈け付けざる先に、信玄と某直戦して、手に手を取りて指し違ふるか、模様に依って無事にするか、明日は二つ一つの戦也とて、九月九日亥の刻に打ち立て、雨宮を渡って、夜明くる。其の勢一万三千と云へり。陣気の少しもみへざるは、一度に人馬の支度調へさする法故也。
  伝に云ふ。長尾諸将を集めて定めけるは、明日合戦有るべき由、忍(しのび)の兵の告ぐる所、必定なるべし。敵の謀を察するに、二万の兵の二つに分け、常山の首尾をなして、一つは此の山へ対し、一つは中島へ出て、某戦ふ由。戦はずとも、才川の辺にて備の乱れん処をと心懸くるとみへたり。此の事鏡に移りしが如し。
  さらば某も重手を謀らん。各宵より飯を喫し、例の如く腰にも食を携へ、武具を帯し、草鞋(わらじ)の緒をしめ、篝を焼かせて待ち侯へ。敵、忍を以って此陣を問(うかが)はんに、明日の合戦、長尾既にしりぬとみへて、武者を揃へて相持ち候とこそ云はんずれ。

 一、扨(さて)又荷物等も調(ととの)へ置きて、軍中への披露には、敵を待ちて戦ひ給ふに寄り、承はるべし。刻限を知らねば宵より用意して一戦あるべし。御勝利の後、足を留めず御帰陣なるぞ。穴賢(あなかしこ)、油断あるべからずと触れ候也。(略)

 去る程に、信玄の先手十頭、寅の上刻に城を出る。謙信は此の時を見斗らひ、荷物人足并びに直江山城・甘糟近江等は、川上をさして早や半途迄出でにけり。

扨又謙信、諸卒に下知して、
「敵、城より出づるとみば、某川上へ廻りて雨宮を渡り、中島へ出でて、信玄が本陣へ押し懸らんぞ。敵は定めて大手、搦手一同に兵を出すと社(こそ)聞きつれ。いかに信玄、心利なり共、備えを出す期(ご)になりなば、其の事にのみ取り紛れなんぞ。其の間には、心安く川上へ出でなんぞ」と、勝負の次第悉く云ひ聞かせて、行列正して心静かに山を出でて、雨宮へと越 し給ふ。甘糟は先達つて筑摩を渡り、一千の備えを二つに分けて、渡瀬の上下に扣(ひか)へたり。信玄是をば知らず、九月十日の暁、広瀬を渡り、八千にて備を立て、先衆の一左右を待つ処に、日出で霧晴れければ、長尾一万三千にて、いかにも近々と備へたり。

  伝に云ふ。去る程に、信玄、広瀬を渡り、中島へ出でて、先陣は川に添ひ、本陣は河原に張出して鶴翼の変陣を作れり。妻女山の先陣は、高坂弾正自ら進みて押し寄せ、足軽をかけたるに、山上には篝斗り焚きすさびて、音もせず。高坂、「真先に懸けむ。敵には謀有りと覚ゆるぞ」とて、先づ鬨(とき)の声を揚ぐ。夜も漸々明け方に成りにけり。扨又信玄へは斥候・忍等馳せ来りて、謙信川を越ゆと告げたれども、越後へ帰るにて社あらめと云ふも有りしに、信玄も既に備へ給ふる半ばの事にて有りければ、心得たりと宣ひながら、止むを得ずして軍を備へ給ひにけり。長尾も長蛇の勢に連ねて、其の身二の手に在りて下知し給ひけるが、日出で霧晴れてみれば、備をくり出し、張懸けて、思ひしよりは近々とすゝむを横様に見えたれば、甲州勢驚きしと也。

 対々の色にても危きに、敵は大勢、味方は纔(わずか)の八千騎と云ふ共、手員死人多かるべしとて、武田勢色悪しく成りし事。
  伝に曰ふ。長尾は荷物は大路人夫に持たせ、要用の荷馬四五十疋にて有りし。直江を奉行として、軍勢の後にたゝまらせ置きし。すべて近年の謀に才川大急流なれば荷馬を船に乗するに時を移さん。其の上不慮に恐れて軍を班(かえ)す事も有らん時に、人馬の声夥(おびただ)しからん。所詮徒歩荷然るべしとて大力荷馬はなかりしと也。之に依って此の度も万三千とはいへ共、人足を引きてみれば、軍卒八千斗りと聞こへし。扨此の勢を一備えづつ繰出して、武田の陣の方へ、声を発し鼓を打ち張り出しては、越後の力へ上り掲けて、又次の陣にも此の如くして、一手づつ武田が陣を立てし形に対して、各、繰並べてけるに、次第々々間近くぞ成りにけり。扨後には我が本陣と武田の本陣と、相対致し上り廻してける其の間に、後の直江は歩荷と馬を行列正して並べさせて、才川の方へ静かに鼓を打ちて押し行きければ、武田の陣より是をみて、同じく軍兵を纏出す様と有りしと也。(略)

 信玄は信州先方浦野と云ふ弓矢功者の士を召し、斥候に越し給ふ。浦野見て帰り、申上ぐるは、長尾は過ぎ侯と中す。信玄積り能き大将なれば、「謙信程の者が、川を越して夜を明かす程にて空敷(むなし)く引き取るべきか。退き様は如何」
と問ひ給ふ。浦野申すは、
「謙信味方の備を廻りて立ち切り々々、幾度も斯くの如くして才川の方へ越し侯」
と申す。信玄聞し召し、
「流石浦野共覚えぬものの申し様哉。夫は車懸りとて、幾廻りめに味方の旗本と敵の旗本と打ち合はせて、一戦する軍法也。扨は謙信、けふ(今日)を限りと見へたり」
と宣ひし事。

 伝に云ふ。信玄少しも騒がず。牀机(しょうぎ)に居て宣ひけるは、「今日謀りしあまたの其の一術に当れり。浦野民部左衛門は当所按内をも能く知り、其の上、万(よろず=すべてのこと)に功者なれば、浦野を呼べ。敵の備へを見切らせて、追ひ散らさん」と宜ひける。浦野甲を脱いで高紐にかけ、御前に畏(かしこま)る。
「いかに民部左衛門。敵の備を見て来れ。汝は流石(さすが)功者なるぞ」と宣ふ。浦野、謹んで承り、頓(やが)て馬に打ち乗り、馳せ行て乗り廻し、駈け帰りて御牀机近く参り、大音にて申しけるは、「敵は退き申すとみへて、才川の方へ趣(おもむ)き侯」と云ひて、信玄の御顔をきつと見上げてにらみけるを、信玄頓(やが)て心得て、例の言葉なれば「扨(さて)、迯(にぐ=逃)るると申す道理はいかん」と問ひ給ふ。
「さん侯。敵、備を張り出す様にみえ侯を、あれへ参りて見候へば、思ひの外にて侯。張出しては跡へ引き、越後の方へと趣き侯、早や、敵の陣々、旗の色衰へて、越後の方へなびきて候。殿に慕はるゝがこはさに、例の張り引きにて候」と大音にてののしりて、又信玄をにらむ。是を聞き、人々大半色直りて、「扨はよしなき恐れをなしつる哉(かな)。実(げ)も謙信程の大将が、不慮の軍に逢ひたればとて、唯にはいかで引くべしや。此方を劫(おびや)かしかゝるとみせて引きとらんとの謀なるべし。(中略)流石浦野なる哉」と各々云ひもし、思ひもしけると也。(略)

 信玄弥々(いよいよ)心得て、大音上げて宣ひけるは、
「流石浦野共覚えぬ事を申すもの哉。味方に先達たれて川を渡して待つ程の時宜にて、一戦せずして引くべきか。夫は車懸りと云ひて一手切りに軍して、二の手の款ふを待たず、勝負にも構はず、将と将との雌雄を決する倫なるぞ。穴不便(ふびん)や。謙信某が謀に逢ふて今日を限りとこそ思ふらめ。さらば此の車懸りを留むる方便をしてみせん。庸将(ようしょう=平凡な将)の知るべき備にあらず。勘介呼べ」と溌機(はき)々々と宜ひける。此の内諸卒の色悉く直りて、「扨は車懸りと云ふ事をみん。謙信も秘術を尽すと思へたり。扨又、是を留むる方便とは、いかなる備ぞや。命あらば見覚えて、後代の手本にせん」と静まり返りて御下知を待つ。敵を恐るゝ気色なし。初めは浦野が申す所、有功有智と思ひしが、今又君の仰を聞きて、明らか成りける理(ことわり)哉。とにも角にも神明不惻(しんみょうふそく)の御智恵也と誉め奉る事限りなし。


つづく

by Masa



 
 

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